つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

集団的自衛権、限定的なら認めるべきだ

 集団的安全保障について、国会内では、与党内も含めて相変わらず反対論が多いんですね。小生などは、どういうことなんだとついつい思ってしまいます。与野党の一部議員は、「現憲法では個別的自衛権までしか認めていない。集団的を言うなら、憲法を改正すべきだ」と言います。憲法改正が先というのは、なるほど正論ですが、議論がそこで止まっていいのかとも思います。
 現行憲法の条文上、改正にはなおハードルが高く、現時点では早々にできないことは何人も承知していることです。一方、日本の周辺には、尖閣諸島問題をはじめとして、日米の軍事的な提携が必要な局面が迫っています。ですから、この際、部分的な集団的自衛権まで踏み込んでもいいのではないかと小生は考えます。
 自民党が提示している集団的自衛権の範囲は限定的です。つまり、北朝鮮などの国が米国向けにミサイルを発射した際、これを日本が途中でこれを撃ち落とせるか、あるいは、ペルシャ湾などで機雷が撒かれたときに、外国艦艇と一緒にこの除去作業ができるかという程度のものです。今のところ、米軍に呼応して自衛隊を第三国に派兵し、戦闘行動に入ることまでは想定していません。
 公明党は、以上の2点程度のことなら、集団的でなく、個別的自衛権の解釈でも十分成り立ち得るのではないかとしています。小生も現憲法を尊重するなら、この可能性も探るべきだと思うのですが、掃海作業に関しては「個別的」が成り立っても、米国へのミサイル攻撃を防ぐということに関しては、「個別的」ではなかなか解釈が難しいのでは。
 日本にとって最大の問題である尖閣諸島防衛ですが、中国が侵略してきた場合、個別的自衛権で十分対応できます。日米安保条約では、米軍は片務的に日本防衛の義務を負っており、無条件に支援してくれるはずですから。しかし、一方で、「尖閣では米軍のお世話になりますが、米軍自体がやられたときは知りません」では、米国民の感情が許しません。これまでは片務的で済ましてきましたが、今は、一定の双務的な意思を見せる必要があるのだと思います。
 要は今、憲法解釈の問題でなく、尖閣諸島への侵略危機、北朝鮮の核、ミサイルの脅威をどう認識するのかという問題が重要なのです。そのためには必要な措置があるなら、それは拡大解釈しても認めるべきではないかと考えます。台風が迫っているときに、どのくらいの高さの防波堤が適当であるかなどの議論をしてもしょうがない。とりあえず、緊急の防災対応が必要ではありませんか。

 上の写真は、東京・神楽坂の毘沙門天境内にある藤棚。きのう、神楽坂に飲みに行って、待ち合わせの時間に早かったので、藤を観賞してきました。