つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

新聞読まないのは、知性の劣化か

 いわゆる昭和世代、それも30年代、40年代に教育を受けた人たちに聞くと、「最近の若者は新聞を読まない。本も読まない。知性が劣化している」と嘆くのです。なるほど、電車の中でスマホを見ている若者が多く、新聞や本を読んでいる人をほとんど見かけません。では、これって本当に知性の劣化なのか。スマホだって活字が書かれており、新聞と同じとも感じられるのですが、、。

 毎日早朝に自宅まで届けられる新聞というのは素晴らしい商品だと思います。小生が通信社の地方支局にいたときに、そこの地元紙の記者がこんなことを言っていました。「何も持たなくていいから、毎朝6時までに自宅に来てくれ。そうすれば1カ月3000円(当時の新聞の値段)あげると言っても、毎日来てくれる人はいないだろう。新聞配達人は毎朝来て、しかも情報満載のペーパーを届けてくれるんですよ。3000円で安いと思わない?」。

 確かにその通りですね。その商品価値、配達労力からすれば、実に合理的な商品だと思います。でも最近、新聞を購読しない家庭が多いんですね。小生の授業で、「家で新聞とっている人?」と聞くと、パラパラとしか手が挙がりません。学生の親はほとんどが40歳代。彼らはすでにパソコンに慣れ親しんだ世代で、新聞には目が行かなかったのです。そんな家庭に育った20歳くらいの若者が新聞を読みたがるはずがありません。

 では、彼らが何から情報を得ているかと言えば、ほとんどスマホです。スマホも活字で書かれているので、文章を読む力は新聞とそう変わりないのですが、一見では分からない決定的な違いもあります。スマホの文章はさほど長くないので、長文を読む忍耐力が養えない。したがって、これが読書離れにもつながっています。

 もう一つは、スマホはだれでも発信できる情報ですから、漢字の正確さ、言葉の使い方を含めて文章自体がいい加減なものが多い。まして、仲間内で交わす会話、文章となれば、ほとんど他者が理解できない”雑文”でしょう。これに対し、新聞記事や流通ルートに乗った本は一応、整理部や校閲部の目が通っているので、言葉の誤用がほとんどない。その意味では、新聞や本を読むことで、正確な日本語を身に着けることはできるはずです。

 スマホでは、若い世代が感情に任せてその場で作ったようなほぼデタラメに近い日本語が普及し、古来培ってきた日本語の文化をぶち壊してしまうこともあります。これを知性の劣化というのなら、その通りですね。ただ、言葉は時代の変遷に合わせて変わっていくもの。逆に、新しい言葉が生み出されない限り、文明の進歩もないという思いもあります。時代に伴う言葉の変化については、小生にとって良し悪しの判断がつきかねる悩ましい問題です。

 ただ、スマホは電子画面であり、新聞は紙。このツールの違いには小生もいささかのこだわりはあります。やはり、紙文化は素晴らしい。紙文化で育った世代からすると、新聞は残ってほしい文化のツールです。

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 上の写真は、小生の勉強会の仲間で亡くなった女性が描いた作品。先日、池袋の芸術劇場ホールで行われた遺作展を見てきました。