つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

民主主義とは反対意見を許容する寛容さ

 「私はあなたの意見に反対だが、あなたがそれを主張する権利は命がけで守る」というのはフランスの思想家ヴォルテールの名言ですが、これは民主主義の本質を突いた言葉だと小生はずっと思っていました。民主主義制度とは多様性を容認することですが、それだけでなく、同時にさまざまな人に個人の意見を発表する権利、機会を与えることです。という観点に立つと、日本学術会議から推薦された新会員候補6人が首相によって任命を拒否されたというのは驚きであり、権力行使の行き過ぎではないかと思っています。

 任命されなかった6人を見ると、2013年の特定秘密保護法で反対意見を主張したり、集団的自衛権の拡大解釈を図った2015年の安全保障法制時に、野党側の公述人として国会に出て「違憲だ」と陳述したりしていた人など、いわゆる政府の方針にそぐわないというか、逆らってきた学者ばかりです。小生自身から見れば、これらの人はいわゆる”法匪”的な感じで、世界情勢が読めなくて国家を危険にさらす人たちだと思いますが、彼らが彼らなりにこれまで学んできた中で得た結論であり、そう主張したいのなら、その機会を認めてあげるべきです。

 ぐずぐず文句を言うような面倒くさい奴がいたり、複雑な手続きがあったりすると、何事にも決定に時間がかかります。われわれの日常生活、組織の中でも文句を言う奴が必ずいます。でも、それが健全で、正常な社会です。菅義偉首相は成果主義の人で、何でも自らの政策を早く形にしたいと思い、スピード重視のところがあるようです。でも、やり過ぎると、反対意見を無碍に踏みつぶす危険性をはらみます。民主主義は反対する人の意見をじっくり聞いてあげるべきで、プロセスに時間がかかっていいんです。

 中国人の友人は「民主主義は面倒だ。時間がかかり過ぎる」と言って、一党独裁の中国の”優位性”を誇りにしています。スピードで言えばその通りですが、われわれは、そういう制度もプロセスも取りたくない。強権主義はいずれ権力者の志向に振り回され、民衆は痛手を負う。一方、選挙で政権選択できる民主主義国家は、近視眼的な人気取り政策による衆愚政治が一時的に行われる恐れがないわけではないが、それはいずれ賢明な選挙民によって拒否されます。ですから、大局的に見れば、民主主義制度の方がはるかに優れていると小生は思います。

 携帯電話料金の引き下げ、少子化対策のための不妊治療の奨励、行政をはじめとした諸機関でのデジタル化、判子文化の取りやめ。さらには、最近、人口の都市集中を避けるために、地方移住者へ支援金を出す政策も考えているそうな。地方出身の首相らしい構想で、小生はいずれも支持しますが、中には現在の制度で利益を得ていて制度改変に反対する人がいることも頭の片隅に入れなくてはなりません。端的に言えば、政策転換すれば、新たな業態と求人が生まれるけど、一方で失業者が出ます。

 例えば、判子をなくすことで、街にいる「判子屋」の業態転換をどうするのか。かつて小池環境相クールビズを提唱し、「夏のネクタイは止めよう」などと訴えましたが、街にはあった多くのネクタイ専門店はこの提唱に困惑したと思います。政治はそうした店の行く末まで頭に入れ、100%の支援はできないまでも、転換資金援助などいささかでも手を差し伸べるべきです。それが民主主義国家の政治の良さ、優しさ。強権政治国家であれば、何でも権力者の意のままに動かせるのでしょうが、民主主義国家はやはり「優しくなければ、生きる(存在する)資格はない」(レイモンド・チャンドラー)のです。

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 上の写真は、本牧のホームセンターに行く途中の家の前に飾られていたシーサーとハイビスカス。南国情緒たっぷり。