つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

永倉新八がテーマの時代小説序章

 「散切り頭の新八独り旅」その1           日暮高則

 

第一章 四半世紀ぶりの京の街

 

 早朝、汽車が鉄道のホームに滑り込んだ時、窓から見える空はどんよりと曇っていた。

 明治二十四年〈一八九一年〉春、新暦の三月末の京都駅(停車場)。まだ肌寒さが残る。

 <道場の仲間と一緒に初めて京に入ったときもこんな天気だったな>

 白髪交じりの散切り頭で、薄色紺の格子縞の袷に濃い縦縞の袴姿。信玄袋風の手提げとステッキを持った老人は、ホームに降り立つなり、溜息をついて空を眺めた。

列車から降りる乗客の顔を見ると、トンネルで煙を浴びたせいか、皆、顔は煤で黒ずんでいる。

 <恐らく自分の顔もあれと同じなんだろう>

 そう思うと老人は可笑しさが湧いてきて、口元がほころんだ。

 東海道線の東京-神戸間が開通したのは、この前々年の明治二十二年で、東京在住の老人が京都の再訪を思い立ったのは、鉄道ができたことも大きな理由だった。

 新橋駅から汽車に乗り込んで延々と二十一時間。ずっと硬い椅子に夜通し座ってきたので、腰が痛い。木板の腰掛では、十分に眠れない。途中、うつらうつらしては何度も目を覚ました。

 東京で鉄道に乗った経験はあったが、こんな長旅は初めてだった。新しい乗り物は便利だけど、それなりの難儀はあるものだとも感じた。

 でも、当たり前だが、歩き通しよりははるかに速い。

 <最初に上洛したのは文久三年(一八六三年)二月末だったが、あのときは十五日もかけて中山道を歩いてきた。それに比べれば、夢のような速さだ。これが文明開化なのか>

 老人は早朝の空気を深く吸いながら、そんなことも思った。

 駅舎は西洋風のレンガ造りの二階建てで、端に尖塔もある。

 駅前は大きな広場になっており、馬車と人の群れでにぎわっていた。

 荷駄の馬車が鉄道貨物の到着を待っている脇に、客待ちの人力車もいて、車夫が手持ち無沙汰に煙草をくゆらせていた。

 「お客さん、乗らんかね」

 声をかけてきたが、老人は黙ってやり過ごした。

 「なんでぃ。貧乏人め」と車夫が小さな声で毒づく。

 小声でも老人の耳には達した。振り返って、無言でぐっと車夫をにらみつけた。

 細身ながら上背のある老人の眼光には相手を威圧する鋭さがあった。射すくめられた車夫は老人を凝視できない。気まずそうに下を向いてキセルをポンポンとたたくだけだった。

 駅前の電柱に、緋色地の派手な幟(のぼり)旗が数本括りつけられ、微かな風にはためいていた。

 幟には<大阪道頓堀の尾上亀之丞一座、京都に初お目見え。四条北座で公演中>と書かれてあった。大阪の演劇一座の京都公演であろうか。

 老人は緋色地に気を取られ、ちらっと目をやったが、演劇に関心を示したわけではない。

 剣術一筋、つい最近まで、北の果て蝦夷地の監獄で、看守相手に剣術指南をしていた。だから、にぎにぎしい演劇の世界、その舞台での出し物などに縁がなかった。

 かつて京にいたときは、化粧の匂いが漂った遊里に通い、妓女の踊りを愛でたこともあったが、老いた今ではそんな機会はない。

 <京で少しの間一緒に暮らし、子をなした女もそんな生業だった>

 老人は幕末の一時期、一緒に暮らした女を思い出した。いや、思い出したというより、ずっと心に仕舞っていた思いがしばしば無意識の中から表れてくるのだ。まして、ましてや、ここは思い出の地である京都なのだから。

 女は、子を産んだ後すぐに死んでしまったが、整った顔立ちは忘れられない。踊りもうまかった。

 <あの女も文明開化の時代に生きておれば、遊里で男に侍るのではなく、舞台で大衆に見せる芸事で暮らしが立ったのかも知れない。その方が似合っていただろう>

 老人は遠くを眺めるようにして昔を回想した。

 駅舎から見える京都の景色はそれほど変わっていない。

 京を離れてから四半世紀近くたつが、匂いも空気も同じだ。

 盆地を囲む四方の連山は当時の記憶のままだ。東山も、北山も、西山も、そして南方遠くに見える宇治の丘陵も。

 北西の正面に東西の本願寺の伽藍が見える。老人はその風景に懐かしさを覚えると、同時にかつて京にいた五年ほどの歳月を走馬灯のように頭に駆け巡らせていた。

 

 老人の名は杉村義衛。それは明治になってからの改名で、それ以前の徳川の世では永倉新八と名乗っていた。かつて洛中に限らず、上方全体を震撼させていた会津藩御預かりの治安組織「新選組」で二番隊隊長を務めていた剣客である。

 京都では「永倉新八」の名の方が、通りがいい。だが、ここでは新選組の”悪名“はまだ残っていると思われるので、新八本人はなるべく旧姓を使わず、「杉村」で通そうと考えている。

 江戸牛込柳町の剣術道場試衛館の道場主近藤勇が、道場の門弟、食客仲間である土方歳三沖田総司原田左之助山南敬助藤堂平助井上源三郎と江戸を発ち、上洛したのが文久三年だった。道場の食客だった新八もこの仲間に加わった。

 もっとも同行者は試衛館一門に限らない。京で将軍家を守護するという名目で幕府の徴募に応じた二百を超す大勢の浪士が一緒だった。

 文久三年二月五日、江戸小石川の伝通院を出発、中山道から上洛の途に就いた。板橋から大宮、鴻巣、本庄、松井田、下諏訪、奈良井、中津川、柏原を経て、二十二日大津に着到。翌二十三日、京の東の玄関口、三条大橋から洛中に入った。

 「これが京の三条大橋か。とうとう京に参ったのだな」

 新八らは感激に浸ったものの、華やかな京の風情には縁なく、その日のうちに洛西郊外の壬生に移動、割り当てられた地元の郷士八木源之丞邸に入った。

 したがって、永倉新八にとって今回の京都入りは、十五日間の道程で初めて足を踏み入れてからは、実に二十八年ぶりの再訪である。

 あの時は二十五歳と若かった。今は五十路(五十歳)もとうに超えて、老境の真っただ中にある。

 老齢にもかかわらず京都を再訪しようと思ったのは、江戸の剣術修行時代からの知り合いで、新選組二番隊でも補佐役の伍長をしてくれていた島田魁が生存しており、しかも今、かつて新選組が屯所にしたことがある西本願寺寺男として奉職していると知り、会いたいと思ったからだ。

 いや、京都に来たのはそればかりでない。もう一つ、大きな望みがあった。どちらかと言うと、こちらの方が真の目的だったかも知れない。

 かつて京にいたとき、新八は小常と言う源氏名を持つ芸妓と夫婦同然で暮らし、その彼女が慶応三年七月六日に女児を出産した。新八にとっては最初の子供であり、忘れようにも忘れられない。

 <いそ(磯)と名付けられた娘は生きていれば、もう二十歳を過ぎて女盛りを迎えている。行方を知るための確たるすべは持っていないが、京都に行けば手がかりがあり、会えるのではないか>という漠然とした望みは捨てていなかった。

 新八は、京都駅の駅舎からそう遠くない不動堂村にまっすぐ足を運んだ。ここは、新選組が壬生、西本願寺に次いで三番目、京で最後に屯所を置いた場所だ。

 大阪までの鉄路沿いに二丁(約二百二十メートル)ほど歩いたところにある。

 屯所時代の建物は取り壊されていた。跡地にはなにやら、役所のような建物が建っているが、新八にはどんな役所かは関心がない。ただ、いささか名残がある周りの風景から、当時の情況がよみがえってくる。

 慶応三年(一八六七年)十二月半ば、ここから、鳥羽伏見の戦いに出た。磯を最後に見たのもこの近くだった。十二日、乳母が連れてきて、屯所近くの八百屋の二階で会った。父祖の地松前藩があった北海道の言葉で言えば、実にめんこい子供だった。

 「永倉さん、見ておやりなさい。小磯ちゃんよ」

 磯を見て新八の顔がほころんだ。

 「少し大きくなったようだ」

 それだけ言って、乳母から幼子を抱きとり、その顔に頬ずりした。

 小常は磯を産んだ後、産後の肥立ちが悪く、この前日に落命している。母が亡くなる少し前、磯は、祇園にいた小常の姉小駒に託されたが、小駒も座敷に出ているので面倒が看切れない。乳飲み子を抱える祇園近くの女に預けられ、お貞というその女が乳母となって育てていた。

 新八は隊務に忙殺されたこともあって、幼子とは産まれた直後に二、三度会ったきりで、その後ずっと顔を見ていない。

 新八は八百屋から白湯をもらい、口に含んで口移しで小磯に飲ませた。小磯は白湯をごくりと飲んで微かにうなずいたが、頬ずりされると、ひげの痛さで泣き出した。

 それでも、新八は止めなかった。わが子の泣き声につられて目から涙があふれ出した。

 <儂はこれから戦いに出て死ぬだろう。この子とはもうこの世では会えないのだ>

 そう思うと、愛おしさと切なさで胸が締め付けられた。

 「お貞さん、申し訳ないが、それがしはこれから京を離れる。恐らく戦(いくさ)になるだろう。申し訳ないが、もうしばらくこの子の面倒を見てもらえまいか。……ここに五十両ある」

 新八は切り餅(二十五両入り)二つと一緒に、古ぼけた赤い巾着を懐から取り出した。

 「江戸の松前藩邸に永倉嘉一郎という者がおる。この巾着はその嘉一郎の母親、それがしにとっては伯母に当たるが、その伯母の形見なので、嘉一郎はきっと分かるはずだ。騒乱が収まったら、手立てを講じて巾着とともに、この子を江戸に届けてもらえまいか。きっと引き取ってくれるはずだ」

 京から江戸に幼子を届ける方法など乳母は思いも及ばなかったが、うなずくしかなかった。相手の目が真剣だったからだ。

新八は、小磯を最後に強く抱きしめて、涙を吹っ切り、屯所に戻って行った。

 あの子はどうしているのだろう。島田魁に聞けば、少しは手がかりが出てくるかも知れない。いや、彼が分からなくてもいい、祇園の姉が乳母お貞の行方を知っているはずだ。そこを訪ねれば、何かが分かるはずだ。

 そう、新八が京都を訪れた最大の目的とは、不動堂村で分かれた娘の消息をたどり、探し出すことだった。

 新選組が不動堂村を屯所にしていた期間は短い。だから、それほど思い出が刻まれた場所でもない。新八はすぐにそこを離れ、屯所近くの八百屋に向かった。最後に小磯とお貞さんと会った場所だ。

 古びた構えの八百屋は残っており、今も八百屋をやっている。春先なので店先には野菜の種類は少ない。それでも、大根、白菜、京菜などの野菜が並べられていた。

小磯と別れた折に立ち会ったおばばはかなりの老齢ながらなんと健在で、しかもちょうど店番をしていた。

 永倉新八が二十三年前の娘との別れのことを切り出しても、おばばは目の前の老人がその時の武家とはすぐには分からなかった。鳥羽伏見の戦い幕府軍が負けたと聞いていたので、当然新八も死んだものと思っているようだ。

よくよく老人の顔を見たあと、まるで幽霊でも見るように目を丸くした。

 「永倉さんやね。新選組にいた」

 「そうです。あの折にはお世話になりました。戊辰の役では何とか生き残り、江戸に戻っていたが、この度、久方ぶりに京を訪れました」

 「いやー、ほんまに永倉さんや。御無事やったの。信じられへん」

 新八は、八百屋のおばばの驚きに型どおりのあいさつで応じると、すぐに娘の消息を尋ねた。

 「あの時、乳飲み子を連れて来た祇園の乳母や、その乳飲み子である娘の小磯の消息はご存知でしょうか。何でもいいのです。手がかりが欲しいのです」

「そうやなー、あの折、乳母さんが娘さんを連れ帰ったきり、その後のことは知りませんねん。祇園近くに知り合いがいてはりませんから、その後の消息も聞いてません。でも、元気にしてはるんと違いますか」

 白髪で少し腰の曲がった老婆は、相手を気遣うように当たり障りのない返事をした。本当に、その後の消息を何も知らないようだった。あとは、娘の消息に関わりのない昔話を始めた。

 新八は小銭とともに東京の住所を書いた紙を渡し、「もし娘の話を聞き及んだら、この住所に知らせてくれまいか。郵便が面倒と言うなら、西本願寺寺男をしている島田魁という者に知らせてくれてもよい」と頼んだ。

 八百屋のおばばの昔話に一通り付き合ったが、埒が明かないので早々にそこを離れ、西本願寺に向かった。(続く)

 

 以上は、新選組2番隊長、永倉新八明治24年に娘捜しのため、再び京都を訪れるストーリーの冒頭部分です。

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 上の写真にあるのは、赤坂プリンスホテルの跡地に残る館。李氏朝鮮の王子とその日本人奥方が暮らしたとされる。