つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

永倉新八がテーマの時代小説(3)

「散切り頭の新八独り旅」その1

 

 長州藩士、不逞の浪士が集っていた京・三条小橋の旅籠池田屋新選組が御用改めを掛けたのは元治元年〈一八六四年〉六月五日夜だ。その消息は、新選組の探索方が河原町四条上ルの古物商枡屋が怪しいとにらみ、その主人枡屋喜右衛門を捕縛して得たものだ。

 枡屋喜右衛門とは実は、近江出身の勤王武士古高俊太郎で、長州藩士、倒幕組と気脈を通じていた。新選組の枡屋踏み込みで屋内に大量の武具が隠し持たれていることが判明した。

 古高を勾引し、拷問して問い詰めると、最後に「風の強い日を狙って京の街中に火をかけ、その混乱のどさくさに紛れて天子さまを長州に連れ去ろう」と計画していることを白状した。

 その企てを具体化するための話し合いが近々持たれるというので、新選組は探索を進めた。そして六月五日夜に会合があることを突き止めた。

 当夜、祇園宵山で街中に囃子が流れる中、新選組は不逞浪士の会合の場を探し回った。街中は宵山で、歩く者は浮かれている。町人も武士も酒に酔いしれていた。

 不逞浪士が集まりそうな怪しい場所が二か所浮かんだ。

 その一つは木屋町姉小路にある四国屋。もう一つは高瀬川にかかる三条小橋近くの旅籠池田屋だ。四国屋には土方歳三指揮のもと大方の新選組隊士が駆け付け、御用改めをした。だが、不発に終わった。実際に不逞浪士が集結したのは池田屋の方だった。

 その池田屋には、近藤勇ら十人ほどの隊士が先行組として向かった。旅籠の周りに隊士を配置してしばらく土方の本隊を待ったが、なかなか到着しない。しびれを切らした近藤は先行組だけで踏み込むことにした。

 屋外を固めた隊士を除き、屋内への斬り込みは、腕利きの近藤、永倉新八沖田総司藤堂平助の四人だけとした。様子から見て敵方はかなりの多数と見たが、是非もない。こちらは鉢金や鎖頭巾、鎖帷子で防備を固めている一方、敵方には油断もあるだろう。しかも、一流の剣の技を持つ闘士ばかりで、怯む理由はない。

 近藤は決然と闘志を漲らせ、他の三人に顔で同意を求めた後、ドンドンドンと店の小口を叩き出した。

 しばらくして店の主人が顔を出した。

 池田屋長州藩邸にも近いため、主人は長州贔屓である。新選組の装束に驚き、後ろに退いた。

 「新選組の御用改めである」

 近藤が掛け声を発して最初に土間に入り込むと、三人も近藤に続いた。

 果たして屋内の二階には不逞浪士と思しき三十人近い数の男が集まっていた。すでに話し合いは終えたと見え、酒肴の用意もされていた。

 四人がいかに防備を固めた格好とはいえ、三十人近くの相手と刃を交えるのは勇気がいる。だが、近藤ら四人はますます闘志を漲らせ、屋内に踏み入った。

 一人倒し、二人倒していき、相手側を圧倒した。

 しばらくして土方歳三の隊が池田屋に駆け付け、死闘は一刻(二時間)ほども続いた。

 闘いが一段落しようとした時、藤堂に油断が生じた。襖のわきから出てきた男に一瞬の隙を突かれ、前額から鼻の辺りにかけて切られ、深手を負った。藤堂は流血で前が見えない。切り刻まれる寸前だった。

 その藤堂の危機を救ったのが新八だ。藤堂を斬った男が駆け付けた新八の方に振り返り、上段から刀を振り下ろそうとしたところを突きで仕留めた。

 新八は藤堂を助け起こすと、屋外に連れ出し、外を固めていた隊士に藤堂の身を託した。新八自身も左手に裂傷を負っていた。

 沖田総司は胸の病による吐血で倒れた。先行組四人で無傷だったのは近藤だけだった。

 京の治安を守ったということで、新選組と近藤局長は会津藩松平容保公から直々に感謝され、その名声はいやが上にも高まった。

 

 池田屋事件のあとしばらくたち、傷が癒えた藤堂が島原に新八を誘った。

 島原の老舗「桔梗屋」。二人は久しぶりに差しで杯を交わした。

 新八は、元蝦夷松前藩士だが、江戸生れの江戸育ち。父親は禄高百五十石で江戸定府取次役を務める中堅家臣だ。それに比べて、藤堂は戦国時代の武将藤堂高虎を祖とする名張藤堂家藩主のご落胤とのうわさがある。事実、身のこなしにも品格があり、育ちの良さをうかがわせた。加えて、藤堂平助には学があった。

 武芸一筋の新八は、品格と学問を兼ね備えた藤堂に引け目を感じていて、それほど親しく接してきたわけではない。ただ、試衛館で同じ釜の飯を食った仲間という意識はあった。

 それが、池田屋の死闘で生死の別れの場を共にし、新八と藤堂は言わず語らずのうちに濃いつながりを感じた。この年、新八は二十六歳、藤堂は二つほど下の弟分だが、池田屋以降、藤堂は新八に親しみを感じ、実際に兄事するようになっていった。

 「新八さんには危ういところを助けてもらって、改めて御礼申し上げます」

 藤堂は礼を言いながら、新八に酌をした。

 「平助が助かってよかった。試衛館からの仲間を失うのは見たくないからな」

 試衛館の話が出て、二人は江戸での話に花を咲かせた。当時、試衛館道場に客分として一緒だったとはいえ、すれ違いも多く、親しく話したこともなかったのだ。

 半刻もして酒が回ってくると、藤堂が

 「ところで、新八さんは休息所を持っていますか」

と切り出した。

 休息所とは、非番の時に隊を離れて過ごす場所で、小隊の隊長、つまり副長助勤以上の新選組幹部の特権だった。当然、そこには女を置いておくわけだ。

 「いや。遊里で酒を飲むたびに女を抱くが、決まった者はいない」

 「そうでしたか。休息所を持って女に肩でももんでもらえば、気も休まる。隊務の辛さも忘れる。ぜひ持ってください」

 「君はどうなんだ」

 「私は、休息所を持ってないが、ここ島原に馴染みの女がいる。……私の女に一人紹介させましょう」

 ポンポンと手をたたくと、仲居が飛んできて、藤堂は小銭を包んだ紙袋を渡して仲居に耳打ちした。

 しばらくして年増の三味線弾きとともに、芸妓二人が部屋に入ってきた。

三味線の音に合わせて芸妓が次々に踊りを披露。終わると、藤堂と新八の脇にきて酌をし始めた。

 「こちらにいるのが、私が馴染みにしている胡蝶です。そちらが小常さん。まだ島原に来たばかりで旦那が見つかっていない。……新八さん、どうですか」

 藤堂は小常を新八の馴染みにし、その後に落籍して囲えと誘ったのだ。

 小常は女にしてはいささか背が高く、顔も面長で鼻筋の通った色白の美形だった。新八は美形にも気を引いたが、それ以上に彼女の初々しさに好感を持った。

 「小常どす。よろしゅうお頼み申します」

 京言葉を使っているが、土地の産ではないなとなんとなく分かった。

 だが、新八は「儂は江戸から来た田舎者じゃが、よろしゅう頼むぞ」

とへりくだると、小常は

「江戸は公方さんのおられるところと違いますのんか。そんなに田舎どすか」

などと言って口を開けて笑った。その笑い方が無邪気だった。

 その日は屯所に戻ったが、以後、新八は島原に行くたびに小常を呼び出し、懇ろになった。

 小常はまだ二十歳を過ぎたばかりのよう。初めて小常を抱いた時も、普通の妓女にない初々しさがあった。乳房もまだしっかりと張っており、しかも腹がくびれて少女の面影を残していた。

 新八はすっかりその肉体に溺れた。だが、小常を休息所の女にするのはためらった。新選組にいる限り、いつ落命するか知れたものではない。女を不幸にするのが嫌だった。

 慶応四年年明け早々、小常からややこを宿したことを知らされ、新八はやっと落籍する覚悟を決めた。子を成した以上、武士として一家を作るけじめをつけたいと思ったからだ。

 そして武家の端くれとして、きちんとした婚礼も挙げたい。それならば、親兄弟を呼ばねばならないとも思った。だが、老齢の父母や兄弟を京に呼ぶわけにもいかないし、自分らが江戸に帰るわけにもいかない。不動堂村近くに持った休息所で、静かに二人で婚礼の真似事をし、新婚生活を始めるしかなかった。

 組の当番で市中見回りに出かけ、生死を分けた刀争をする一方で、非番で休息所に行き、小常の初々しさに触れると気持ちが安らいだ。そして、彼女の腹が徐々に大きくなっていくことがどれだけ生きる喜びを与え、嬉しいことだったか。

 その後、屯所で藤堂に「小常に子ができたんだ」と打ち明けると、「ほう、そうでしたか。それはめでたい」と喜んでくれた。そればかりか、「実はね、新八さん。ここだけの話ですが、胡蝶にも子供ができたようなんですよ」と話してきた。

 新選組は戦う集団だ。隊士はいつ討ち死にするか分かったものではない。それだけに家のこと、家人のこと、ましてや子供のことなど所帯じみた話はおおっぴらに口にできない。

 隊士同士で家族の話ができるのは、親しさを増した証拠だ。

 「男だったらやはり武家にしたいが、娘ならどうしたものか。胡蝶と同じように芸妓にするのは気が進まないんでね」

 藤堂はそう言って笑った。

 「そうだなぁ。儂も子供を芸妓にはしたくないな。でも、明日の我が身がどうなるか分からぬわれわれからすれば、子の将来は女(妻)に下駄を預けるしかあるまい」

 新八は、生まれ来る子供を立派に育ててくれるよう小常に全幅の信頼をもって託すしかないと思った。その時は、まさか小常が年内に自分より早く落命するなどと予想すらできなかったのだ。

 

 今は老境に入った新八は、七条油小路角にある天水桶脇にかがみながら、昔の女の面影と、その短かった生活を思い出していた。

 <気立てもいい、可愛い女だったなあ。人生にもしもはないが、小常が死なず、娘の小磯とともに京都に生きていれば、戊辰の戦乱が終わったあと、儂は危険を冒してでも、早々に京都に舞い戻っただろう。北海道出の女などと新たに所帯を持つことなく…>

 新八は今、松前藩藩医村松柏の次女よねを妻としていた。杉村義衛の杉村の姓は妻方の姓である。

 新八は火打ちを出してまたキセルに火を付けた。紫煙が微風に揺れながら、油小路の方向に流れていった。(続く)

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 上の写真は、東京・深川の富岡八幡宮本殿。