つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

永倉新八がテーマの時代小説(5)

「散切り頭の新八独り旅」その1

 

 底冷えのする京都の霜月十八日、丑の刻。七人は、途上知り合いの駕籠屋を叩き起こして遺骸を載せるための駕籠を用意させ、油小路に急いだ。月明りが道を照らしていたのがせめてもの慰めだった。

 御陵衛士の七人は七条通と油小路の角に遺骸があるのを見つけた。

伊東と確認すると、「先生、なぜ」などと言いながら取り囲み、涙を流した。

 七人が遺骸を駕籠に載せ終わると、辺りを不穏な空気が包んだ。御陵衛士の周囲の闇の中から、複数の男たちが一斉に姿を現し、彼らを取り囲んだ。

 都合四十人ほどであろうか、抜刀してじわじわと包囲を縮めてきた。

 男たちは浅葱色ダンダラ模様の新選組揃いの装束でなく、紺色の無地の袷に、たすき掛けの恰好だ。月明かりで、七人にはすぐに襲撃者が何者であるかが分かった。見知った顔ばかりであったのだ。

 永倉新八原田左之助島田魁もいる。藤堂には大きな衝撃だった。

 「昔の仲間がむごいことをする。……だが、是非もない」

 七人は七条角から幅の狭い油小路に追い詰められ、南北両面から挟み撃ちされる形となった。相手の数が多い篠原、富山が北方に向かい、毛内と服部がその後ろで塀を背にして控えた。鈴木、加納、藤堂が南方に相対した。

 最初から多勢に無勢、しかも鎖の着込みをしている新選組に対し、七人には服部を除いて身に何の防御もない。端から勝ち目がないので、この場から逃れるしかない。南北で前方に出た五人は切り結ぶことより、相手の剣を払ってどう逃げるかを考えた。

 篠原と富山は二、三人と切り結ぶうちに活路を開いた。腕など数カ所を切られていたが、いずれも浅手。彼らは小路を脱し、西洞院通に出て京都御所北、相国寺辺りにある薩摩屋敷を目指して逃げた。富山は薩摩藩出身で、実は密偵として新選組に加わっていたとも言われた男で、ずっと藩と通じていた。

 北の後方に控えていた毛内がすぐに新選組の包囲網につかまり、切り刻まれた。毛内は常日ごろ書見を好む学者肌で、剣は得手ではない。

 服部武雄だけは鎖帷子を着込んでいたので、奮戦できた。

 月真院から出るとき、服部は「これは新選組の企てに相違ない。であれば、先生の遺骸の周りには彼らが潜んでいるはずだ。斬り合いに備えることは必定」として、仲間が止めるのも聞かず、鎖帷子を着込んだ。

 服部は二刀流の使い手で、一時新選組の剣術師範を務めていたほどに腕が立つ。仲間を逃がすため、一人で複数と相対し、多くに傷を負わせた。しかし、本人も数十カ所に手負い傷を負い、戦い疲れ果てたところで原田左之助宝蔵院流の槍に仕留められた。

 南方で戦っていた鈴木と加納も囲みを抜け、堀川沿いに出て逃げることができた。藤堂は南方で最後まで残って戦い、腕を浅く切られた。これを見ていた新八が他を下がらせ、ひとりで藤堂に対峙した。

 新八は上段から間合い詰め、鍔迫り合いに持ち込んだ。

 月光が刃面に反射してきらりと光った。

 鍔迫り合いのもみ合いの中で、新八は小声で「平助、逃げろ。近藤さんの指示だ」とささやいた。

 藤堂は何も言わなかった。だが、鍔迫り合いから離れて間合いを取った。そのあと、数歩後ずさりして後ろ向きになり、塩小路方面に逃げた。永倉と近藤の思いやりを無にしたくないと思ったのか。

 だが、藤堂には不運なことに、油小路南方角を固めていた隊士三浦常三郎が逃げる藤堂を背後から袈裟懸けに斬りつけた。三浦は新選組で藤堂の隊に属し、藤堂が一番目を掛けていた男だった。

 藤堂は振り向きざま三浦の腕を切ったが、それ以上の余力はなく、卒倒して倒れた。

 その様子を見ていた新八は「平助」と小さく叫びながらすぐに藤堂のところに駆けつけた。藤堂はすでに肩口を切られ、絶命寸前だ。

 顔を覗くと、藤堂は新八と認識したようで、かすかに「胡蝶。娘を…」とつぶやいた。

 そうだ、藤堂も儂と同じように囲った女との間に子を設けていたのだ。

 新八は藤堂を抱きしめ、「相分かった」と大きく言葉を返したかったが、それはできない。このときまだ、近くで新選組と服部との戦いは続いていたからだ。

 藤堂は微かに笑いながら、目を閉じて、事切れた。

 <お主とは試衛館、池田屋でも一緒だし、小常も紹介してもらった。誠の同志だ。近藤さんの指示にも従えず、すまないことをした。許してくれ>

新八は心の中でそう叫んで、骸に向かって片手を掲げ、祈るしかなかった。

 

 死闘を繰り広げた油小路角には今、本光寺という寺があり、倒幕に与した英雄として伊東甲子太郎の殉難碑が建っている。

 杉村義衛という老人になった新八は、あの闘いがあったときに近くに寺などあったかどうかは覚えていない。本光寺は油小路からちょっと奥まったところにあったためか。

 当時、記憶にあるのは、商家の高い黒塀が、われわれ仲間内の狂気じみた死闘と、市井の平平凡凡の営みを隔絶するように高く立ち塞いでいたことだけだった。商家の者どもはきっと塀の外の争いを二階などから息をひそめて垣間見ていたに違いない。

 新八は、伊東殉難の碑の前に立って、あの斬り合いの一部始終を思い出し、藤堂を死なせてしまったことを改めて悔やんだ。

 <策謀家の伊東甲子太郎などは切られても構わないが、平助だけは助けたかった>

 今でもそう思っている。

 純粋で根が優しかった藤堂の顔が忘れられない。池田屋事件以降、隊士うちの中でも深い付き合いをしてきた男だ。藤堂を思い出すと、また自然に小常の顔が思い出され、磯のことも頭に浮かんでくる。

 あの時、藤堂が油小路でうまく逃げおおせたとしたら、その後どんな生き方をしただろうかと新八は考えた。恐らく御陵衛士のほとんどがそうであったように、薩長の討幕軍に与したに違いない。

 <平助が油小路で生き残ったにしても、鳥羽伏見やその他の場で薩長軍の戦いに参加するだろう。であれば、また戦場で儂と相まみえることになる。結局、われわれは早晩死ぬか生きるかの闘いをする定めであったのかも知れない>

 新八は、武家として生きてきた虚しさを初めて身に感じた。(第一部終了)

 

 上の写真は、京都・油小路の本光寺の入り口と伊東甲子太郎の殉難碑。