つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

永倉新八がテーマの時代小説(6)

「散切り頭の新八独り旅」その2

   第二章 旧友島田魁との昔語り

 

 西本願寺京都市街地のほぼ中央に位置する。六条通から七条通まで伽藍を延ばす大寺院である。

 浄土真宗本願寺派の総本山で、もともとは鎌倉時代中期、親鸞がこの地に廟堂を創建したのが起源とされる。本尊の阿弥陀如来像は第三代宗主覚如によって安置され、上方庶民の深い信仰の対象になった。

 幕末に新選組は、壬生の屯所が手狭になったことから、嫌がる西本願寺に力ずくで迫り、屯所をここに移してきた経緯がある。

 永倉新八は、ここに江戸の剣術修業時代から新選組にかけてずっと一緒だった島田魁がいると聞いて訪ねてきた。

 新選組は当時、西本願寺の僧職からあんなに嫌われていたのに、新選組隊士だった島田がどうして受け入れられたのか。第一、島田がどうしてそのような場に職を求めたのか。新八には大いなる疑問だった。

 七条油小路辻から西本願寺正門まで歩いてすぐだ。

 正門の社務所で尋ねると、「島田老は太鼓楼の番人をしていて、今もそこにいるはずだ」と言う。驚くことに島田は新選組時代の名前を替えずに、ここに在職していた。

 太鼓楼は北東角塀近くにある。粒の小さな玉砂利を踏んでいくと、かつて新選組が屯所の一部として使っていた太鼓楼と大銀杏の木が見えてきた。

 黒の瓦に漆喰の白壁。さほど大きくない平屋の一部がそそり立つように塔状になっている。昔のままならば、そこには時を告げる大太鼓が置かれているはずだ。

 新八が楼内を覗くと、木綿紺色の作務衣を着た一人の老人が箒で床を掃いていた。白髪、老体の外見に似合わず、大柄で骨太そうな体形。動きもてきぱきしていた。

 「お尋ね申す。ここに島田魁氏がいると聞くが、ご存じあるまいか」

 老人は新八に目を向け怪訝そうな顔をし、じっと見ていたが、間もなく

 「あれ、お主、永倉新八さんじゃなかろうか」

 「おお、そうよ。やはりご老体は魁さんであったか」

 「なんと、懐かしい。京に参られたのか」

 目と目を合わせた二人は、傍に駆け寄り、固く手を握り合った。

 甲州での戦のあと別れて以来、二十三年ぶりの再会である。

 年は経て顔にしわを刻んだが、お互いに面影は残っている。島田魁は、地毛の薄い白髪で、歯のないせいか、口蓋がへこんでいた。

 鳥羽伏見の戦いに負けて、新選組は慶応四年の一月中旬、船で江戸に逃げ戻った。その後、近藤、土方らは甲府城の奪回のため、甲州方面に進撃するよう幕府に命じられる。

 命じたのは、幕府軍陸軍総裁の地位にあった勝安房守(勝海舟)だ。これから討幕軍と江戸での攻防戦、場合によっては城明け渡しの話し合いをするときに、京都で尊攘倒幕派の人斬りをしてきた新選組が江戸にいるのは不都合とばかり、体よく追っ払おうとしたのだ。

 勝安房守は近藤勇に「甲府城を獲れば、あなたがそこの大名だ。幕閣も了承している」などと甘い言葉をささやいた。

 近藤はすでに京都で幕臣の一人になっている。だが、本来の夢はもっと大きい。多摩調布の百姓から武士になって以来、ずっとあこがれていたのは大名になることだ。

 その大名の地位が目の前にちらついた。その気にさせられた近藤は、新選組の残党、旗本、御家人の子弟を集め、甲陽鎮撫隊なる一隊を組織した。近藤の名声は江戸でも轟いており、「近藤局長の下で働きたい」と願う若者が大勢押し掛けた。

 慶応四年(一八六八年)三月一日、約二百人の甲陽鎮撫隊は江戸を出発した。

 近藤は大名気取りで馬上の人となった。幕府から三千両の軍資金を頂戴しており、それに大砲八門、それに元込め式のスナイドル銃三百丁もあったから、意気揚々だった。

 土方歳三沖田総司斎藤一永倉新八原田左之助島田魁ら名だたる新選組の勇士もその仲間に加わっている。

 鎮撫隊は内藤新宿、府中を経て、翌二日には土方の故郷日野に達した。ただ、そこで地元の大歓迎を受けて思わぬ長逗留となってしまった。多摩の旧知の者たちが、凱旋してきた新選組隊士を一目見ようと殺到し、京での活躍の話など聞きたがって、なかなか放さなかったのだ。

 結局、日野を離れ、勝沼の手前の駒飼に達したのは三月五日であった。

 土佐藩谷干城率いる討幕軍は前日の三月四日に一足早く甲府城に入っていて、迎撃態勢を取っていた。

 結局、両軍が対峙し、にらみ合ったのは甲府城外の勝沼付近だ。鎮撫隊の兵力は、多摩で加わった者も含めても三百人ほど。一方、討幕軍は一千五百人ほどの陣容で、かつ所持する兵器も違う。戦う前から勝敗の帰趨は分かっていた。

 近藤は、兵力の追加を幕閣に求めようと、土方を江戸に戻らせた。だが、三月六日早暁、優勢にある討幕軍が先に仕掛け、双方の戦いが始まってしまった。火力に勝る討幕側が一気に押し出し、鎮撫隊はさんざんに打ち負かされた。

 隊士たちは、散り散りとなり、ほうほうの体で江戸に逃げ帰って行った。

 この時、原田左之助と行動を共にした新八と、近藤の傍にいた島田魁とは離れ離れになった。近藤は隊員がバラバラになる前に、「これにめげないで、新選組の再結集を目指そう」という指示と再結集の場を兵士に示していた。

 新八と原田は、近藤が会戦の場で「援軍が来るぞ」という偽りの情報を流していたことや、采配の稚拙さを見て不信感を持った。だが、再結集という近藤の指示には従うことにした。

 甲陽鎮撫隊残党らは、近藤の指示通り、後日、江戸・本所二つ目にある旗本、大久保主膳正の屋敷に再び集まった。新八はこの時再び島田とも顔を合わせたが、二人の間にはいささか隙間風が吹いていた。

 新八と原田はこの会合の中で、勝沼での敗将にもかかわらず、依然大名然とした近藤勇に愛想を尽かし、以後近藤らと別行動を取ることを宣言した。

 ここで、新八は近藤、土方の下に残った島田とも別れた。それ以降、戊辰戦争での接点はない。

 だから、新八が此度京都で島田魁と会ったのはこの本所での一別以来ということになる。

 「魁さんが新選組の屯所だった西本願寺、しかも太鼓楼にいるとはなあ」

 新八が感慨深そうに楼の天井を見上げた。天井は古びているが、蜘蛛の巣などは張っていない。島田が丹念に掃除をしていることをうかがわせた。

 太鼓楼は文字通り、寺内に時刻を告げる太鼓を打ち鳴らす場所である。その大太鼓は今でも当時のままにあった。

 新選組が屯所を壬生から西本願寺に移した時に、寺の北塀に沿ったところに宿舎を設け、その隣の北東角にあった太鼓楼も一部執務の場として使っていた。

 「儂がこの寺に戻って来たのは、新選組が迷惑をかけたので、せめてものお詫びの意味があったからね。それにここで、壬生、不動堂村の屯所、京都で死んだ新選組隊士を弔いたい気持ちもあった。今の貫首も儂の顔を覚えていた。よく許してくれたと思うよ」

 島田は歯を欠いているため、しゃべりが口ごもる感じがする。それが白髪とともに、一層老人の風情を感じさせていた。

 屯所移転の際に建てられた隊の宿舎はすでになくなっているが、創建が古い寺のもともとの建屋である太鼓楼は残されていた。島田魁はこの太鼓楼に居座り、太鼓を打つ寺男になっていたのだ。(続く)

 上の写真は、京都・西本願寺正門と境内にある大銀杏。