つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

「散切り頭の新八独り旅」その2

第二章 旧友島田魁との昔語り(続き)

 

 島田魁は文政十一年(一八二八年)生れだから、新八より十歳も年上で、この年すでに六十三歳になっている。

  美濃の国(岐阜県)で大農家の庄屋の次男坊として生まれた。次男坊ゆえ家督は継げず、母方の親類の武家に養子に出された。剣の技を磨こうと最初は近くの町道場で修業したが、徐々に剣の魅力に取りつかれ、江戸に出てさらに修練する気になった。

 江戸では、牛込見附の坪内主馬道場に住み込み、心形刀流を学んだ。

 天保期から幕末にかけての江戸では、北辰一刀流の千葉周作道場「玄武館」、神道無念流の斎藤弥九郎道場「練兵館」、鏡新明智流の桃井春蔵道場「志学館」の三大流派が有名だった。だが、心形刀流も九代目家元、伊庭軍兵衛秀俊が幕府講武所の師範になるほどに大きな流派で、坪内道場も名が知られていた。

 神道無念流を学ぶ新八は少年時代の他流試合で坪内道場を訪れ、そこで島田と初めて顔を合わせた。

 剣術の流派も歳も違えども、剣を極めたいという思いを共有する二人はすぐに親しくなった。二人で他の道場を訪問し、試合を重ねたこともある。

 新八はその後、やはり武者修業で訪れた試衛館で道場主の近藤と親しくなり、そこに居候。やがて道場の仲間とともに浪士隊に加わり、京に向かった。島田は新八が試衛館にいることは承知していたが、浪士隊に加わって京に出かけたことは後刻知った。

 <あれほど親しくしていたのに、新八つぁんはなぜ俺を誘わなかったのか>

 残念な思いがあったが、<新八つぁんには試衛館の仲間内の約束があり、多くに知らせたくなかったのであろう>と島田は解釈し、自分も浪士隊に入るべく、気を取り直してすぐに後を追った。

 島田が京に到着したのは文久三年(一八六三年)五月で、新八らが京入りしたたった二カ月後だ。浪士隊は「壬生浪士組」と名を変えていたが、新八の紹介ですぐに入隊が許された。壬生浪士組がさらに「新選組」という名を会津藩主から賜るのはこの年の八月である。

 島田は心形刀流の手練れであったが、印可は受けていない。そのため、当初は戦闘部隊でなく、土方歳三の配下で諸士調役兼監察の任を命じられた。対外的には密偵、対内的には隊士監視の役回りである。

 元治元年(一八六四年)六月、池田屋事件を前にして島田は密偵として古高俊太郎の捕縛に活躍した。その功績もあって、事件後、二番隊で新八隊長に次ぐ伍長に収まった。

 「ここ、京では随分血なまぐさい闘いを繰り返したなぁ」

 「そうだな。もう二十年以上たつが、つい最近のようにも思えるよ」

 新選組内の序列では新八の方が上だが、歳は島田が十歳も上。しかも、新選組加盟以前の江戸での知り合いでもあったので、局内の公の席では「永倉隊長」「島田君」などと呼んでいたが、当時から二人だけや親しい仲間うちでは「新八つぁん」「魁さん」と対等の呼び方だった。

 「魁さんは、儂が芸妓の小常に子供を産ませたことは知っておろう」

 「もちろん、承知しておる」

 「実はな、京都に来たのはお主に会いたいこともあったが、その子がどうなったか、知りたくてなぁ」

 「さもあろう、さもあろう。当時、鳥羽伏見の戦さに出るときに、新八つぁんから娘と別れてきた話は聞いたし、今でも、しっかり覚えている。だから、儂も京都に来てからなぁ、実はいろいろ昔の知り合いを訪ねて消息を探ってあげていたのよ。申し訳ないことに今では花街などにはとんと縁がなくてなぁ、これまで十分な手がかりも得ていないが…」

 「そうか、それは面倒かけて相済まぬ。娘を産んだ小常はあの年暮れに産後の肥立ちが悪く死んだが、娘は祇園にいる小常の姉小駒さんに預けられた。だが、その姉も芸妓の仕事が忙しかったようで、磯を貞さんという近くの乳母に預けた。不動堂村の屯所近くに娘を連れてきたのはその乳母だ。明日にでもこの乳母を訪ねてみようと思う」

 早春の京都はまだ寒い。二人は太鼓楼の宿坊で火鉢を囲みながら、茶を飲んだ。出がらしの茶はうまくないが、火鉢の薬缶で煮立った湯で熱いのが救いだった。

 「そうであったな。儂もその大筋の話を聞いていたので、祇園界隈で訪ね歩いてみた。小駒さんが亡くなっているようなことは聞いた。人伝てでは小駒さんが預けた乳母殿も行方知れずのようじゃ」

 「さようか。いずれにしても、明日祇園に行く。自分で合点が行くまで捜してみたい。……まあ当時、われわれは鳥羽伏見の戦いで死んでもおかしくなかったからな。子供にもう一度会えるなどと思ってもみなかった」

 「確かに、確かに。儂らも何度か危うい目にあったからな」

 二人の老剣士はそれから鳥羽伏見での戦い以降の思い出話に花を咲かせた。

 

 大政奉還のあとの慶応三年十二月、薩摩、長州、土佐の藩兵が京に進駐。新選組は会津藩から伏見一円を固めるよう命を受け、伏見奉行所に陣を張った。

 間もなく、京の二条城にいた幕府の重役永井玄蕃頭から、近藤勇局長に「城に来てほしい」との使いがあった。近藤は島田魁ら四人の隊士を伴って伏見から二条城に向かった。

 その帰り道の竹田街道墨染辺りで、馬上の近藤に銃が射掛けられた。近藤は首筋を撃たれたが、馬に鞭を入れて疾走し、死なずに済んだ。ただ、その場に残った徒歩で供をしていた新選組の二人が襲撃者によって惨殺され、島田は危ういところ難を逃れた。

 襲撃したのは御陵衛士の残党である伊東の実弟鈴木三樹三郎、篠原泰之進、阿部十郎、内海二郎らであった。油小路で闇討ちをしてきた新選組には恨み骨髄で、必ずや伊東隊長、藤堂平助ら仲間の仇を取ると固く心に誓っていたのである。

 油小路の決闘の場にいなかった内海と阿部はとりわけその気持ちが強かった。あの日、鉄砲を持って高野山辺りに鳥撃ちに行っていて不在だったのだ。その分、二人は申し訳なさから、必ず新選組幹部に一矢を報いると思い詰めていた。

 近藤に鉄砲を射掛けたのも阿部十郎だ。彼は新選組内で砲術師範をしていたくらいに鉄砲の腕に秀でていて、撃った弾は見事近藤の首を捉えた。一撃では死には至らしめることはできなかったが、近藤の傷は重く、手当てを受けるため、鳥羽伏見からは離れざるを得なくなった。

 近藤は大阪城に向かい幕府医事方の手当てを受け、養生に努めることになった。代わりに副長の土方歳三が新選組全体の指揮を取った。

 島田は護衛に付きながら近藤を守れなかったことを恥じた。次にこんな機会が訪れたときは真っ先に死ぬのは自分だと言い聞かせた。

「永倉隊長、もし薩長軍との戦いが始まったら、それがしは真っ先に敵陣に突っ込むので、止めないでほしい」

 「でもな、島田君、あんたと儂は同じ隊だ。死ぬのも一緒さ」

 そんな会話を交わしていたが、後日そんな状況がやってきた。

 慶応四年(一八六八年)の年明け一月三日、伏見街道で幕府軍と薩長軍がぶつかった。

 同じ伏見の御香宮神社に陣を張った薩摩軍は、そこから大砲を市街地に撃ち込んできた。新選組が本部とする伏見奉行所へも砲弾が飛んできた。土方は「これではいずれ壊滅する。ならば、先手を打とう」と薩摩軍大砲隊への斬り込みを考えた。

 その企てに乗ったのが二番隊だ。血気にはやる新八や島田に引きずられるように二番隊が決死隊として御香宮の敵陣に向かうことになった。

 大路を行けば鉄砲の集中砲火を浴びるので、決死隊は民家の塀を乗り越え、乗り越えして御香宮に近づこうとした。しかし、敵もさるもの。決死隊が大砲隊に接近させない

よう民家に火をかけ、敵の進撃を食い止める策に出た。

 決死隊とは言いながら、これ以上進んでも火にまかれて死ぬだけだ。

 「犬死はしたくない」と、数軒進んだあとに隊長の新八は退却を決断した。

 敵軍の鉄砲弾を受けながら、やっと奉行所の塀まで戻って来たが、皆へとへとだ。最後の奉行所の塀は特に高い。新八は鎖帷子の重装備をしていたので、土塀が登れない。それを見た島田が塀の上から鉄砲を差し出した。

 新八がそれに取りすがると、島田は「えいやっ」とばかりに銃ごと引き上げて塀を乗り越えさせた。大男怪力の面目躍如である。

 そのあと隣家には砲弾が直撃、間一髪のところで新八は命拾いした。

 「魁さん、かたじけない。あのまま隣家でぐずぐずしていたら、今ごろあの世だったぜ」

 新八の感謝の言葉に、島田は「江戸以来の朋輩が何を言うか」と言わんばかりに平然としていた。

 上の写真は、京都・島原にある芸妓置屋の「輪違屋」。