つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

「散切り頭の新八独り旅」その2

第二章 旧友島田魁との昔語り(続き)

 

 話し込んでいるうちに太鼓楼の外は大分暮れてきた。初春の京都はやはり底冷えがする。境内も参拝客は消え、静けさを取り戻した。島田は会話中、何度か太鼓をたたきに行っていたが、「暮六つ(午後六時)の太鼓で仕舞いだ」と言った。

 「新八つぁん、宿は決めてないと言ったな。ならば、今日は儂のところに泊まったらどうか。社務所に断れば済む話だ。それから、日も暮れたので、ちょっと外に出ないか。酒でも飲みながら、話の続きをしよう」

 島田魁は、西本願寺西門前に寓居を持っていた。だが、太鼓楼の一室で寝ることも多かった。島田は、新八に寓居でなく、昔懐かしい太鼓楼で一緒に寝ようと誘ったのだ。

 新八もここに泊まることを了承し、二人で西本願寺正門前の居酒屋に入った。

 「呑みや」と書かれた大きな赤提灯が店先に掛かっていた。蝋燭の灯りである。

 店内は石油ランプだった。明治のこのころ、すでに京都でも電灯がお目見えしていたが、まだ安い居酒屋までには普及していなかった。

 文明開化の影響で商家などは店舗の風貌を変えてきている。ただ、庶民の居酒屋はそれほど変わっていない。自然木を丸く薄く切ったままの卓に、酒樽の椅子。仲居も丸髷に着物だった。

 肴は干し魚、野菜の煮物、漬物が中心だ。牛肉、猪肉を使った焼き物、煮物などいささか文明開化の影響を受けた出し物も入っているが、それはそれで値段が高くなっている。

 島田は燗の清酒を注文した。肴は京都地物の千枚漬けとニシンの煮付けだ。寺男の給金は低いから、旧友の接待でも簡素なものだった。

 新八は、注がれた酒をぐいっと一気に飲み干して、話を切り出した。

 「それにしても、甲陽鎮撫隊って、何だったろうかね。今考えると、虚しさが込み上げてくるだけよ」

 最初の話題は、近藤隊長と諍いを起こし、そして新八、島田の間にも隙間風が吹き始める原因となった甲陽鎮撫隊の一件だった。

 「近藤さんはにぎにぎしく軍馬に乗り、大名気分だったぜ」

 新八が苦々しい顔をした。

 当時、近藤は大名こそなっていないが、慶応三年(一八六七年)六月、将軍お目見得以上の旗本三百石格の幕臣に取り立てられていた。なるほど、働きによっては大名の可能性がないわけではない。

 だが、鎮撫隊一行は、土方副長の郷里の日野で二日もとどまり、村人もおらが村の英雄来るという感じで大勢集まってきて、飲めや歌いの大騒ぎとなった。

 「確かに、およそこれから大戦さをするという感じはしなかったなぁ」

 甲府への進軍の様子は、近藤の近くにいた島田魁もよく覚えている。

 新八は、甲陽鎮撫隊が日野に留まりすぎたために、甲府の戦いに遅れた近藤の指揮の不手際を取り上げた。さらに、彼の偉そうな態度まで不愉快そうに振り返った。

 新選組時代から、近藤が勤王佐幕の目的で集まった武家同志の組織の長というより、殿さまと家来という感じで仲間と接してきたことに、新八は腹を立てていた。特に池田屋事件で、会津侯からお褒めの言葉をもらってからはその傾向が一段と強くなったような気がした。

 そのために、新八は同じ小隊長仲間の原田左之助斎藤一と語らい、近藤を弾劾するための告発状いわゆる「近藤非行五カ条」を持って、黒谷金戒光明寺にいる会津侯のところに直訴している。この連判状の中には島田魁も名を連ねていた。

 新八も島田も公に局長の近藤勇を糾弾する以上、切腹も覚悟していたのだ。幸いに、会津侯のとりなしもあって新選組の大きな内紛には至らなかった。だが、近藤は表面的にはすべて水に流す振りをしながら、その一件を忘れなかった。

 慶応三年正月に伊東甲子太郎らと島原に流連(居続け)て、隊規に触れたときに、近藤は永倉新八にすべての責任を取らせて自害に追い込む動きも見せた。近藤の心底には「近藤非行五カ条」の首謀者である新八への恨みが残っていた。

 甲陽鎮撫隊が敗北したあと、新八が江戸での新選組の再結集に応じながら、その後近藤との同行を拒否したのは、近藤の唯我独尊の姿勢が許せなくなったからだ。

 会津侯への近藤告発騒動のあと、島田はむしろ近藤に近づき、お側衆的な立場になった。近藤は、島田が自分と同じ百姓の出ながら武家を目指したという経歴に親しみを感じ、島田もそれを感じ取っていて距離を縮めたのだ。

 これに比べて、新八はれっきとした武家育ち。心底では、百姓出の近藤を低く見ていたのかも知れない。幕末の戦いの中で、原田左之助と誼みを通じ、終始行動をともにしたのは、原田が足軽ながら武家に育ったという共通性を感じたという理由もあった。

 「近藤さんが甲陽鎮撫隊を引き受けたのは、やはり大名になりたかったからだろうね。儂は近藤さんと一緒で百姓の出だから、武士になった以上出世したいと願う気持ちはよく分かる。幕軍の頭領として入った日野は、武家となった近藤さんの一世一代の晴れ舞台だ。試衛館時代に多摩への出張指南で剣術を教えた者たちに歓待されて有頂天になったのさ」

 天領であった多摩では、早くから武術熱が盛んで、牛込柳町の天然理心流道場主、勇の養父近藤周助が各所に支部道場を置いた。それで同流派を習う百姓、町人が増えたため、近藤勇や師範代の沖田総司が出張教授していたのだ。

 島田はそういう過去を引き合いにして、甲陽鎮撫隊での近藤の振る舞いをかばった。

 「だがな、魁さん。あの時、日野でぐずぐずしていなかったら、倒幕軍より先に甲府城に入れたかも知れない。その時こそ近藤さんは一国一城の主だ。本当に大名気分に浸れたかも知れないんだぜ」

 「でも、それも明智光秀のように三日天下で終わったさ。今思えば、あの時代の勢いは薩長軍側にあった。われわれが甲府城に先に入り、籠ったところで、一日、二日ほどで落城してしまっただろう。……もしも籠城戦を戦ったとしたら、結局は城を枕に皆討ち死だった。われわれが今日まで生きてこられたのも、勝沼で敗退し、江戸まで逃げ帰ったからではなかったか、新八つぁん」

 新八は数々の戦いの修羅場を潜り抜け、島田の言うように今も生きている不思議さを強く感じた。幕府が倒れ、新政府ができてからすでに二十年以上経っている。

 「ところで、魁さんは土方副長らとともに、函館まで転戦したのだろう」

 新八は江戸生まれ、江戸育ちながら、もともとは蝦夷地の松前藩士。藩医村松柏の次女よねと結婚したあと、同地に住んだ経験もある。だから、函館界隈も詳しく、函館戦争のことも良く聞いている。

 それに東京に出る前は札幌近くの政治犯監獄、樺戸集治監で看守相手に剣術指南をしていた。函館どころか蝦夷地全体の事情にも通じていた。

 島田魁は、江戸で新八、原田らと別れた後、近藤らと行動を共にした。近藤は上総の流山で東征軍につかまり、板橋で処刑されたが、島田は土方に付いて、松平容保侯の城下会津若松に向かった。

 東征軍が会津城を包囲したのを見て、斎藤一らはそのまま城内に残り、東征軍と戦うが、島田は土方らとともに行き先を仙台に変え、そこからさらに榎本らの軍艦に乗り込み、函館に向かった。会津戦争でも新選組残党は二派に分かれた。

 榎本武揚大鳥圭介幕臣は、箱館五稜郭を占領し、ここを拠点として蝦夷共和国という新しい国を創ることを決めた。土方、島田らは軍事面からその国創りに協力することしたのだ。

 だが、新しい国創りも東征軍の攻撃によって半年余で潰えた。最後に、榎本ら幹部は徹底抗戦でなく降伏する道を選んだ。土方は最後の戦いで死を選び、島田は降伏によって生き延びた。

 「そう、あの時も榎本総裁ら幹部が徹底抗戦を叫んだら、最後は五稜郭で討ち死にだったろう。儂もなんども死線を越えてきて、今まだこうして生きている。実に妙な巡り合わせの人生だ」

 二人は再び酒杯を持ち上げて、互いの顔の前にかざして微笑み、生きている不思議さを実感した。

 

 「実はな、魁さん。儂はお主や近藤さんらと別れた後、原田とともに、剣の同門で仲が良かった芳賀宜道のところを訪ねたんだ。芳賀はお主も知っておろう。そこで、倒幕軍として戦い抜くという点で考えがまとまり、彼の周りの幕臣や旗本、御家人らを集めて靖共隊という組織を創った」

 「その件はいささか聞き及んでいたが…。新八つぁんも戦い続けていたんだ」

 「……いい思い出はないがね」

 芳賀宜道は元の名を市川宇八郎と言う。もともと永倉家と同じ松前藩士で、剣も新八と同門の神道無念流。若い時に一緒に関八州各地に武者修業に出て、数々の道場荒らしをした仲であった。芳賀は六尺余の長身で力もあり、柔術にも優れていた。

 本来は新選組に加わっても良かったが、旗本芳賀家の養子になったことから、京に出ず、江戸に残った。ただ、討幕軍が江戸に迫る中で、悶々とした日を過ごしていたことだろう。

 慶応四年三月、新選組を離れた新八と原田左之助、さらに矢田賢之助、林信太郎、前野五郎ら元新選組の残党が深川冬木弁天で道場を開く芳賀の元を訪れ. 討幕軍と戦うよう勧誘、説得した。すると、芳賀は二つ返事で、道場をたたみ、その行動に参加することに同意した。

 新しく靖共隊という組織が結成され、芳賀が隊長、新八、原田が副隊長、士官取締が矢田賢之助となった。靖共隊は北関東に赴き、小山、安塚、宇都宮、今市などで官軍と戦った。南会津の田島まで行き、一時は大鳥圭介率いる幕府軍と合流するが、その後は矢田が銃撃されて即死するなど敗戦を重ねた。

 原田左之助は行軍途上の小山付近で、突如「江戸に戻りたい」と言い、別行動を取った。

 原田がなぜ親しくしていた新八と別れたのかは謎だ。戦いに嫌気が差したという説もあるし、芳賀との折り合いが悪くなったと言う人もいる。あるいは、京都で所帯を持った女に産ませた子供に会いたくなったからだという話もあった。

 原田のその後の足取りは明らかにでないが、江戸に戻ったのは間違いない。そこで討幕軍の残党狩りに遭い、彰義隊に加わらざるを得なくなったようだ。最後は上野の戦争で鉄砲弾に当たり、討ち死にしたと言われる。

 靖共隊は江戸出発時、百人近くいたが、度重なる敗戦の中で、隊士同士の意見の対立があったり、隊員が討ち死にしたりで徐々に人数を減らしていった。新八と芳賀は寄せ集めの靖共隊を率いることに限界を感じていた。

 そこで、本隊の指揮を林信太郎、前野五郎に任せ、靖共隊を離れることにし、二人は数人の同調者とともに別個に会津若松城に向かった。佐幕の志厚く、新選組の面倒も見てきた松平容保候が国に戻っていることを風聞していたからだ。

 だが、会津に達しても、鶴ヶ城の周辺にはすでに東征軍が取り巻き、入城することはかなわなかった。仕方なく奥州列藩同盟で会津の強い味方であった上杉藩の米沢を目指した。

 新八らが米沢に達する前に、米沢上杉藩はすでに東征軍に投降していた。

 ために入城できず、新八らは三カ月ほど米沢近郊の旅籠、寺などを転々と隠れ住んだ。城内は東征軍であふれていることから、やがて米沢にも居づらくなり、他への移動を考えざるを得なくなった。

 そのころ、島田魁土方歳三の指揮下で会津若松城の近くにいて、実際に東征軍と戦った。だが、戦い利あらずで、新八より一足先に米沢を経て仙台に赴き、そこから榎本武揚の艦隊に合流し、蝦夷地に向かった。

 土方、島田らが米沢、仙台経由で蝦夷に向かったころ、新八らは米沢を転々としていたので、米沢での微かな接点はあった。ただ、双方とも東征軍に見つからないよう隠れ隠れの行動であったため、出会うことはなかった。

 

 「新八つぁんもあの時に会津、米沢にいたんだね。…でも、一回も会えなかった。あの時点で、最後まで佐幕に徹するという新選組隊士の思いは同じながら、皆ばらばらになってしまっていたんだなぁ」

 「靖共隊で一緒だった一部の連中は、やはり仙台に向かったよ。覚えているだろう」

 「ああ。後で加わった隊士から、新八つぁんのうわさも聞いた。恐らく会津で戦死しただろうという話だった。だから、箱館戦争のあと、しばらくして風の便りでお主が生きていると聞いて驚いたさ」

 「それは、儂も一緒だ。魁さんは蝦夷地まで行ったと聞いたので、土方副長とともに戦死したものとばかり思っていた。それがなんと昔懐かしい京都に舞い戻っていたとは。お釈迦様でも分かるまいというものだ」

二人は声を出して笑った。(続く)

 上の写真は、上野公園の西郷隆盛像。