つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

「散切り頭の新八独り旅」その2

第二章 旧友島田魁との昔語り(続き)

 

 靖共隊残党のかなりの人は仙台、箱館方面に向かったが、新八、芳賀の二人は別の選択をした。江戸に戻ることだった。別にその後の目論見があったわけではない。

 二人とも江戸生れで江戸育ちなので、戦いに敗れ、疲れたあとの虚脱感だった。反動で無性に江戸が恋しくなった。もう一度江戸を見て、江戸で死にたいと思ったのだ。

 米沢から新八、芳賀に同行する者は他に二人。新政府軍に見とがめられないよう町人、百姓姿に身なりを変えた。途中他の隊士二人は別行動を取るが、新八、芳賀は一緒で、越後経由の遠回りをして江戸に向かった。

 新政府軍がうようよいる江戸に、二人が舞い戻ったのは明治元年(一八六八年、この年九月に改元)の十二月。江戸への道中、越後路で知り合った元旗本の男に路銀などを恵んでもらう僥倖もあった。さらに、江戸でも当初はその男の屋敷に匿われていた。元旗本は、江戸深川の埋め立て地洲崎で遊郭を経営していた。

 上野の彰義隊の戦いはこの年の五月に終わっている。江戸は年末を迎え、幕府軍狩りのほとぼりが冷めたかなとの雰囲気も出てきたので、二人は浅草にある芳賀家に移った。芳賀は女房が恋しくなったのだ。

 新八も松前藩邸に実母利恵がいたし、知り合いもいたが、旧藩はすでに新政府側に与している。彼らに迷惑をかけるわけにはいかない。芳賀邸で若い時からの剣友とともにひっそりと暮らすことを選んだ。

 ところが、芳賀宜道は江戸の妻の元に帰り、すっかり安心してしまったのか、愚かなことに、明治二年一月初め、妻の実兄藤野亦八郎と深川のすし屋で酒席を持った。藤野は元旗本ながら、すでに新政府側に与しており、芳賀の消息を薩長軍に伝えていた。

 芳賀は捕縛に駆け付けた新政府軍と刀争に及び、斬り殺されてしまった。

 新八はこの一件で江戸における身の危険を感じ、行く場を失って途方に暮れた。当初、迷惑を掛けられないと旧藩の松前藩との接触は遠慮していたが、最後はそこに頼るしかなかった。

 父親と親しかった江戸家老、下国東七郎に相談を持ち掛けた。すると、下国は「藩に戻ったらどうだ」と、二月にあっさりと新八の帰参を許してくれた。

 俸禄百五十石で、武術指南という役回りだった。下国も新選組における新八の武名を聞き知っており、それなりの敬意を表したのだ。

 母親利恵は存命していて、再会を果たす。老齢の母は滂沱の涙を流して喜んだ。京で暴れまくった新選組の幹部であった上、反官軍の戦いをしていたのだから、生きているわけないと思っていたからであろう。

 だが、帰参から間もない七月、母はこの世を去った。息子の無事を見て安心したかのように、息を引き取った。

 京都に残した娘が江戸の永倉家に引き取られたという話はしていなかった。ということは、磯の乳母は東京の永倉家に孫の消息を知らせていなかったのだ。

 新八は、藩邸内の長屋に住み、屋敷内でフランス式教練の教官となった。新選組時代にフランス人から仕込まれ、洋式練兵術をかじっていたことが役に立った。

 その後、松前藩士としてひっそりと生活し、外出はなるべく避けていた。だが、翌明治三年の夏、思いがけないことが起きる。

 友人を訪ねて出かけた大川(隅田川)の両国橋の上。京の油小路で惨殺を図った高台寺党生き残りの一人で、斬殺した伊東甲子太郎実弟鈴木三樹三郎と偶然出会ってしまったのだ。

 二人が剣で立ち合えば、新八が上だが、ここで勝ちを収めたところでどうにもならない。鈴木は新政府軍に属しているので、仲間や同僚を呼び集めれば、立場が不利になるのは明らかだ。

 新八は<しまった>と思ったが、もう遅い。橋の上で逃げ場もない。会釈し無言ですれ違おうとすると、鈴木が話しかけてきた。

 「久しいのう。お主、今どうしておる」

 「旧藩の松前藩に帰参しておる」

 今では新政府軍に与する松前藩なら手出ししにくいだろうという思いが新八にはあり、それを強調したつもりであった。

 「そうであったか。では、またお目にかかろう」

 短い会話で二人はすれ違った。

 場合によっては振り向きざま一太刀浴びせてくるのではないかと思って、新八は刀に手を掛け、鯉口も切ろうとした。だが、鈴木は何もせず通り過ぎた。

 新八はしばらく鈴木の去る方向を見ていたところ、数尺ほど行って向こうも振り向き、こちらをうかがった。鈴木も彼我の剣の腕を承知しているので、一対一では手出しできなかったのだろう。そのまま含み笑いをして去って行った。

 だが後日、その含み笑いの意味が分かる。下谷三味線堀近くの松前藩邸周辺に明らかに刺客と見られる数人がうろつくようになったからだ。

 油小路の一件に関わる鈴木の恨みは晴れていなかった。仲間を募ってあくまで永倉新八を屠りたいと思ったのであろう。

 新八はその旨を家老の下国に告げると、「藩邸内での住まいでは差し障りがあろう。我が家に来てはどうか」と、しばらく自宅に匿ってくれた。そればかりか、「今後、江戸にいてはまずかろう」と言って、松前藩領への転居を取り計らってくれた。それは、藩医村松柏の次女よねの婿養子になることが条件だった。

 新八は京で連れ合いにした小常や娘の磯に思いを残しながらも、新しく妻を迎えることを決意した。そして、明治四年(一八七一年)一月、江戸から東京と名を変えたその地を離れ、松前に向かった。

 蝦夷地の南端にある松前箱館からそれほど離れていない。その箱館で戦われていた戊辰戦争最後の戦いは前々年の明治二年(一八六九年)五月十八日まで続いた。土方は五月十一日の最後の突撃で死んだが、島田ら新選組の残党は榎本、大鳥らとともに降伏し、生き残った。

 この戦争には、松前藩も新政府軍側として出兵している。新八の帰参が明治二年二月だから、もし藩が新八の帰参後直ちに出撃を命じたとしたら、新政府軍側として箱館戦争に参加しなければならなかった。となれば、蝦夷共和国側にいた島田魁土方歳三とも戦うことになったのかも知れない。

 新八は仮定の話として、その可能性があったことを島田に告げた。

 「確かに、そうであった。新八つぁんとわれわれは敵同士になっていたのかも知れぬな。戦場で敵味方となって相見えれば、驚いてしまっただろうなぁ」

 島田は、杯をぐいと飲み干し、もう一方の手でキセルをポンとたたき、悪い冗談を言ったあとのように苦笑いした。

 「帰参した以上、藩命があれば、逆らえない。幕命より藩命が上だ。儂も新政府軍の一員として参戦したことであろう。でも正直なところ、戦場で魁さんや土方さんには会いたくなかったなぁ」

 「でもな新八つぁん、箱館戦争はもう大砲、鉄砲中心で、白刃の戦いなどほとんどなかった。現に、土方さんは鉄砲に撃たれて死んだ。永倉隊長がいかに白刃の戦いに優れていようと、あまり活躍できる場がなかったように思えるよ」

 「いずれにせよ。そんなことがなくて良かった。油小路で同志の藤堂平助をわれわれが斬り殺したことは今でも儂の心の傷みとなっている。かつて仲間であった者同士の殺し合いはこりごりだ」

 「そうであったな。良い思い出ではない。儂も京都に戻り、七条西に行くたびにあの油小路の同士討ちを思い出してしまう。悲しい出来事だった」

 二人は、思い出話をしながらかなり長い時間、酒を飲んだ。もう年だということもあるが、酒量は大したことはない。ただ、呑めば飲むほどに酔えない気分にもなった。心置きなく酒を飲むには、京はあまりにも重く、強烈な思いを残してきた町だったのだ。

 新八はその日、太鼓楼の寺男の部屋で島田と枕を並べて寝た。

 島田の老人特有のいびきに悩まされたが、体は疲れていたし、布団の中に炭の行火を入れてくれたお陰ですぐに眠りに就くことができた。

(「散切り頭の新八独り旅」その3に続く)

 上の写真は、上野公園にあるしだれ桜。数年前に撮ったもの。