つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

「散切り頭の新八独り旅」その3

第三章 娘の消息を尋ねて(続き)

 

 祇園への道は往路と違って、白川対岸の土手をたどった。左手に東山を仰ぎながら、やや下り坂の道。柳の木のすだれを通して南禅寺塔中なども遠目に見える。

さらさらと流れる白川の水は清らかで、白鷺が数羽、川中で魚をついばんでいた。商家の奉公人と見られる女が船着き場の階段に腰を下ろし、青菜を洗っている。これも昔と変わらない風景である。

 京都守護職であった会津藩新選組を「お預かり」という形で配下に組み入れたが、藩の本陣は吉田山ふもとの黒谷金戒光明寺にあった。新八もしばしば出頭する機会があったので、何度か通った道なのだ。

 その白川の橋を対岸に渡ろうとした時、向かい側から邏卒(巡査)の恰好をした若者が来て、行く手を遮った。

 新八が右手に寄れば相手も右に動き、左手に寄れば左に寄る。

 田舎道である故に人の往来はない。橋の上だけに左右に逃げ場はない。

 相手からは、殺気は感じられないが、明らかに新八を狙った動きである。

 彼我の間は二間(三・五メートル)ほど。

 「貴公、儂に何か用か」

 新八はステッキを握り直しながら、尋ねた。

 若者は何も答えず、黙ってサーベルの剣を抜き、片手で右上段に構えた。

 「この白昼、何の真似か」

 新八は叫んだが、返事はない。

 そうであれば、是非もない。ステッキを相手の顔の前に突き出した。

 すると、邏卒姿の男は右上段から袈裟切りにサーベルを振り下ろしてきた。新八の身体には届かない距離と判断した上での一振りだった。

 歳は取っても新八は一流の剣客。剣先が自らの身に届ないと見切っていたので、その一閃はステッキで受けず、一歩だけ後退した。そしてステッキを片手で腰前に付け、正眼に構え直した。

  実は、新八のステッキは仕込み刀になっている。普段は下げ緒でしっかりと鞘と柄の部分がつなぎ止められて、容易に真身を抜けるものではないので、ステッキのままの構えだ。

 「貴公、何者だ。儂にこんな無体なことをするわけを聞こう」

 新八は、今度は冷静に問うた。

 若者はそれでも無言でさらに半歩前に出、振り下ろした剣を引き付け、さらに下から逆袈裟にすり上げてきた。新八には、その剣も届かないことが分かった。

 だが、相手の無礼さにいささか不快感を増し、今度は自らが一歩踏み込み、ステッキを振るって相手の小手を打った。小手打ちは神道無念流の得意技である。

 直撃されて、若者はサーベルを落とした。真剣であったら、手先が切断されていただろう。

 「これは失礼をいたしました。殺意はござりません。どうかお許しを」

 邏卒は相手の剣筋に驚いたのか、やっと口を開いた。そして、そこにひざまずいて頭を下げ、謝った。

 「では、なぜこのような真似をする」

 「先ほど鹿ケ谷方向に向かう御手前の風体を見て、それなりの剣客と思いました。帰りを狙い、失礼ながら、試しに仕掛けてみました。いや、想像以上でした。誠に失礼の段、お許しください」

 「儂が剣の遣い手かどうかを確かめてどうするのか」

 「剣客であれば、お願いしたきことがございます。貴殿のお名前をお聞かせ願えませんでしょうか」

 新八は無礼さを感じながらも、不思議と怒りは湧いてこなかった。相手の態度から無頼な感じは受けなかったからだ。

 「相手の名を聞こうとするなら、まず自ら名乗るのが筋であろう」

 「いかにもそうでありました。私は津田三蔵と申します。滋賀県警察に奉職しております」

 「そうか制服通りの邏卒か。儂は今、名乗るほどの者ではないただの老人だが、杉村義衛と申す。東京から参った」

 新八はかつて京都で暴れまくった新選組の残党であることを隠した。そんなことを若者に語ったところで、詮無いことだと思ったのだ。

 すると、邏卒は改めて「名のある剣客とお見受けいたしました。お時間あるなら、ぜひ私の話を聞いてもらえないでしょうか」と言い、近くの寺院の境内に誘った。懇願する目が真剣であるので、新八も断れなかった。

 誘いに応じて、二人で近くの寺院の境内に入り、四阿の板椅子に腰かけた。すぐ脇の桜の木は、数輪の花が咲いているものの、まだほとんどはつぼみのままだ。

 「儂は今、京都で肉親を捜しておるところで、忙しい。だが、些少なら時間がある。話とは何か」

 新八が尋ねると、邏卒は、打たれた小手をさすりながら、

 「改めて、私の素性について説明します。私は現在、滋賀県警察におりますが、もともと江戸の下谷柳原の出、父は伊賀上野藤堂藩の藩医をしておりました」と話し始めた。

 津田三蔵なるこの男は、この邂逅の二カ月後、警備中の身でありながら、来日中のロシア皇太子ニコライを襲い、時の政府を震撼させることになるが、この時はまだ名もなき一介の邏卒だった。

 安政元年(一八五五年)の生まれで三十五歳。幼顔のため、実際の歳よりは若そうに見える。幕末期はまだ十歳そこそこであり、一角の志士として活躍できる歳ではない。だが、明治になって陸軍に入り、十年(一八七七年)の西南の役に従軍した。鹿児島、宮崎と転戦している。

 この戦闘で鉄砲弾を手に受け、戦場から離れた。長崎で治療を受けて再び戦線に復帰し、西郷軍が滅んだ鹿児島城山の戦いの包囲戦にも参加。その功績から勲章も受けている。その後、三重県警察を経て、滋賀県警邏卒となった。

 「何、下谷の生まれだと。儂も下谷三味線堀の松前藩邸で生まれた。奇遇じゃのう。…かつて京にいたことがあったので、久方ぶりにこの地を再訪しているところだ。それに君のご出身は藤堂藩か。昔の仲間うちに藤堂藩出身の者がいて仲良くしていたが…」

 「松前藩出身の剣客で京都にいたとなれば、新選組幹部の永倉新八殿しか思い出せません。しかも、あの小手打ちは神道無念流と見ました。御手前は永倉殿ではありませんか」

 新八は名乗るのをはばかったが、嘘はつけない。話が深まれば、いずれ分かることだ。

 「いかにも、儂の元の名は永倉新八じゃった。…この地で芸妓に産ませた娘がおってな、それを捜しにまいったのじゃ」

「そうでしたか。新選組の剣客にここで偶然お会いできるとは夢のようです」

 とは言いながら、津田はそれほどの驚きは見せなかった。

上の写真は、大阪暮らしの今昔館で見た火除け用水。