第三章 娘の消息を尋ねて(続き)
東京、関西間に鉄道が通ったことで、政府の中枢にいる薩長の元藩士たちが、かつて剣を抜いて生死を賭けた場である京都を懐かしがって再訪することがあると聞いていた。在野にある元幕府側の人間が同じように京都に来てもおかしくないと思ったのだ。
「ところで、藤堂藩出のお仲間というのは藤堂平助殿ではありませんか。われわれ藩にかかわる者の間では、その剣名は知られております」
「いかにもそうだ。藤堂平助だ。仲良くしていたが、不幸な事件で落命してしまった」
新八は声を低めた。
「ほう、そうでしたか。新選組は京表で、さまざまな戦いを繰り広げたと聞いております」
津田は通り一遍の返事をするだけ。藤堂が亡くなった油小路の決闘については承知していないようだった。
「永倉殿であるなら尚のこと。ご支援を給わりやすい」
「……どういうことだ」
「今日の日乃本は、文明開化の名のもとに薩長政府によって必要以上に西欧諸国に頼る方策が取られ、天照大神以来の皇祖皇宗の輝かしき伝統が汚されている。そのように思いませぬか、永倉殿。幕末に新選組も掲げていたとされる尊王攘夷の志(こころざし)も今の政府には、微塵も見えません」
確かに、薩長の新政府は文明開化を急いでいる。長州出身の伊藤博文や山県有朋、薩摩出身の黒田清隆、松方正義らが主導する政府は急激な西洋化を進め、内閣制度を創設し、ドイツやフランスのものを手本にして法律も整備した。
それはそれで結構なのだが、津田らが怒っているのは薩長が進めていた明治十年代後半の西洋の物真似、鹿鳴館を舞台にしたダンス外交、媚態外交だった。
幕末に結んだ西洋列国との修好通商条約には関税自主権がない、外国人犯罪者への司法権がない、つまり治外法権を認めているといった不平等条項があった。不平等解消のため、欧州帰りの長州出身外相井上馨や薩摩出身の軍人大山巌らが日比谷に鹿鳴館という西洋式館を造り、西洋人の着飾った男女を招いて舞踏会を開いた。
ここには、会津藩出身で、幼い時に米国留学も経験している大山捨松も、夫の巌とともにホスト役で出て、本場仕込みの社交ダンスを見せている。
捨松は旧姓山川咲子、父親は会津藩家老で、兄たちは幕末の会津若松城籠城戦で活躍した山川浩、健次郎兄弟だ。咲子本人もまだ十歳前の幼さながらも、戦闘中の城内に入って負傷者の手当てや炊き出しなどに活躍した。
それがどうしたわけか、かつて砲兵隊を率いて会津城攻めに参加した宿敵の薩摩藩士に見初められ、結婚した。その藩士こそ大山巌。西郷隆盛に兄事していた大山は旧藩籍にこだわらない太っ腹のところがあった。
井上や大山らには「日本でもこんなきらびやかなダンスパーティーが開ける、西洋に劣らない文明国なのだぞ。もはや対等なのだから、不平等条約もなくしてほしい」とアピールする狙いがあった。
だが、津田三蔵らはこうした光景を苦々しく見ていた。「いまだ農村や地方には貧しい民があふれているのに、西洋の猿真似とは何事だ。所詮、上っ面だけのことではないか」という思いが募っていった。
「それで、儂にどうしろと言うのだ」
新八は、欧米媚態嫌いの津田の気持ちが察せられたが、では具体的に何をしたいのかが分からない。
新八の怪訝な顔を見て、津田は一段と真顔になった。
「私らは近く攘夷を決行するつもりです。幕末にはできなかった真の攘夷です。薩長政府の愚かな役人どもに警鐘を鳴らすためにも、この日乃本にいる毛人どもに断固一撃を加えたい。そのために、腕の立つ同志が欲しい。永倉殿の名声と力をお貸しいただけないか」
振り返れば、そもそも浪士隊が京に上り、新選組を結成したのは、攘夷を行って天主さま(孝明天皇)や将軍(徳川家十四代家茂)の御心を安んじ、その御身を守るという考えに基づいた行動だった。だから、新八にとっても関わりのない言葉ではない。
だが、西欧を範とした文明開化は着実に進んでいる。今さら攘夷決行なんてできるのか。唐突な申し出に新八は答えようがなかった。
「尊王攘夷をどう考えるか」とか「昨今の時局をどうとらえるか」などという政治の世界から離れてもう二十年も経過している。遠い昔の話なのだ。
半ば唖然とする新八に津田は続けた。
「私には同志がいます。ぜひ永倉さんを紹介したい。新選組で一、二を争う剣客が加盟するとなれば、皆喜ぶに相違ありません」
津田の言葉遣いも「永倉殿」から「永倉さん」と変わり、馴れ馴れしくなった。早くも、新八が加盟するものと思い込んでいる。
「持たれよ、津田君。儂はまだ貴公の仲間と加わるとは言っておらん」
「それは承知しております。ただ、一度、我が仲間を紹介しますので、ぜひ」
津田の目は真剣だったので、新八は断れなかった。
「西本願寺の太鼓楼宿坊にいる」と告げると、津田は「では、後日連絡いたします」と言い、再会を期して別れた。
上の写真は、西南戦争で政府軍に加わっていたころの津田三蔵。