つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

小説「散切り頭の新八独り旅」

第五章 津田三蔵の攘夷計画は固まった(続き)

 

 「エイヤー。メン」

 剣道防具を着けた一人が叫ぶと、「まだまだ、届かぬ」などという声が返る。

 大阪・天王寺茶臼山下にある堀越神社前の町屋の一角。早朝から、竹刀を激しく打ち合う音が響いていた。小野派一刀流の牧田玄斎道場だ。

 門弟が壁際に着座、師範代と見られる男がその門弟を次々に指名して、相手をする。

 門弟十人ほどが代わる代わる打ち込んでも、師範代に軽くあしらわれる。剣の技量には雲泥の差があるようだ。

 「柏屋」の奥座敷で前田源之助を囲む商人たちの相場師一党が永倉新八を話題にしていたちょうどそのころ、永倉新八も大阪に来ていた。壬生の八木源之丞から関西の道場回りを勧められたため、翌々日、早速大阪に赴き、天王寺近くの牧田道場を訪ねて食客となった。

 新選組には、幕末に大坂で道場を開いていて、その後に加盟した谷万太郎という元隊士がいた。牧田玄斎はその谷の剣友である。

 谷万太郎は種田流槍術の免許皆伝で、剣技も直心流を遣った。新選組で新八の親友だった原田左之助も大阪で彼の弟子となり、槍の腕を挙げている。

 谷は大阪で道場を開いていた時に、京での新選組の高名を聞き、兄三十郎、弟周平とともに三兄弟で同時加盟した。周平は近藤勇の養子にもなっている。ただ、三十郎が隊内で問題を起こし闇討ちされたことで、兄弟二人は身の危険を感じ、新選組を抜けた。

 万太郎は維新後、再び大阪に戻り、道場を再開していたが、明治十八年に逝去している。牧田は道場主仲間であった谷万太郎から、新選組のことをしばしば聞いていた。

 新選組には良い印象を持っていないが、名だたる剣客には敬意を表していた。元二番隊隊長の永倉新八近藤勇沖田総司ともにその名が知られており、牧田も新八の来訪を歓迎した。

 「池田屋でのご活躍はすごかったらしいですな。谷万太郎氏から話を聞いております。貴殿は神道無念流を遣うとのこと。わが方は一刀流ですが、強さに流派は関わりござるまい。どうかここに好きなだけ滞在して、新選組の実戦の技を門弟にご紹介くだされ。お願い申す」

 牧田はそう言って新八に道場に長くとどまるよう勧めた。

 牧田はあくまで道場剣法。だから、新八の実戦で鍛えられた剣技に興味があった。

 一刀流は戦国時代に小野忠明という剣客によって創始された。江戸時代に中西派一刀流北辰一刀流などさまざまな枝の流派を派生させたが、小野派一刀流はその名が示す通り、忠明正統の流派である。

 道場で打ち合っているのは若者ばかり。しかも武家の出身者でなく、商家のぼんぼんが暇つぶしの余技としてやっているような剣術だ。だから、武家出身の師範代にとても太刀打ちできない。

 ましてや、御一新の後に生まれた、そうした青年たちが新八に挑んでも、相手にならない。実戦剣技の前に道場剣法はほとんど通用しないのだ。

 稽古に出る新八は防具を着けずに正対し、打ち込んでくる相手の竹刀の剣先を摺り上げてかわし、その後に軽く踏み込んで相手の小手を打ち、竹刀をたたき落とした。若者は新八の剣裁きに度肝を抜かれた。

 その稽古風景を一段高くなっている客人用の席(見所)で、牧田玄斎とともに、眼光鋭く見守っている中年の男がいた。坊主頭ながら、紋付きの羽織、袴を着ていた。

 「永倉殿。お疲れでしょう。休まれてはいかが。奥の部屋で一緒に朝餉を取りましょう」

 一刻ほどの稽古のあと、牧田が声をかけた。呼び方は現姓の杉村でなく、永倉だった。新八の剣名は永倉姓とともにあると思っている。

 全体の稽古も小休止に入った。

 新八は、見所にいた男とともに、奥の部屋に入った。

 「永倉殿、この御仁は、大阪で活躍している尾上亀之丞一座の尾上亀之助さんです。亀之助さんは上方の神官の家で育った方ですが、剣もなかなか遣いますよ」

 牧田が見所にいた男を紹介した。

 「ほう、そうでしたか。よしなにお付き合いのほどを」

 新八は、尾上と聞いてもすぐに尾上小亀との関係にまで気が回らなかった。

 「永倉さんら新選組の話は、上方で今でも語り草になっています。私は当時、幼子でしたが、幕末のころの話は大変興味があります。よろしかった一度ゆっくりと話をしていただけませんか」

坊主頭が笑顔で愛想を言った。

 「われわれ新選組など、薩長支配の今の世の中では悪者扱い以外の何物でもない。当時いかに世のため、人のために働いたとはいえ、今政府にいる彼らにすべてを一刀両断にされてしまっている」

 「そう言えば、わが一座の座長、尾上亀之丞は肥後熊本の武家出身で、幕末に勤王方で働いたようです。永倉さんとは敵味方の関係にあったように思われますが、今はそんなにわだかまりもないでしょう。ぜひ一度、一座の演芸を見、楽屋を訪ねてきませんか」

 新八は演芸と聞いて初めて小亀との関係に思い至った。

 「あなたは尾上亀之助と聞いたが、尾上小亀さんがいるのはそちらの一座ですか」

 「そうです。なんで小亀を知っているのですか」

 亀之助は小亀のことを言われてはっとした。

 「先日、京都でお会いしました。あちらの方で公演があったみたいですね。娘の墓参りにもお付き合いいただきました」

 新八はそう言って、自分が娘を捜しに京都まで来たことや、すでに娘が死んでいたこと、そしてその娘と姉妹同然に育ったのが小亀で、先日一緒に墓参りをしたことなどを順序立てて話した。

 「そうでしたか。小亀とはそういう因縁がおありだったんですね。それならば、ぜひ一度、我が一座の方にお越しください」

 「実は、小亀さんからも誘われていましてね。先般、京都で会った時に、次は大阪で公演をするので、ぜひ見にいらしてくださいと言われたのです。実は、今回大阪に参った目的は、道場回りのほかに、小亀さんの芸が見たかったこともありました」

 「そうでしたか。では、よろしかったら、今日のこのあと、私と一緒に参りませんか。小亀も喜ぶと思いますよ」

 新八は急な申し出に驚いたが、これ幸いで、断る理由はない。

 「では、迷惑でなければ、同道いたしましょう」

 新八は尾上亀之助、牧田玄斎とともに朝餉を取った後、大阪の南にある「道頓堀角座」に向かった。もともと大阪に行ったら訪ねようと思っていたので、願ってもない展開になった。

牧田は、新八と亀之助の話を聞いていて、急に「私も同行していいか」と言い始めた。新八と小亀の関係、舞台芸、そして武家出身であり、元勤王方で働いたという座長にも興味を持ったのだった。(続く)

 上の写真は、大阪歴史博物館に展示されている大坂の芝居小屋風景。