つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

小説「散切り頭の新八独り旅」

第五章 津田三蔵の攘夷計画は固まった(続き)

 

 新八は牧田玄斎とともに、尾上亀之助に導かれ、道頓堀角座に向かい、尾上小亀が主役を務める「赤穂浪士をめぐる女たちの物語」を見た。新八らは、亀之助に楽屋から入るよう強く勧められたが、事前に楽屋には行かず、小亀には会わず、木戸銭を払って中に入った。

 赤穂浪士の劇は、赤穂浪士にかかわる女たちがどういういきさつで知り合い、どんな関係となり、分かれていくのかという話だが、その中でも有名な岡野金右衛門と大工の娘の愛と別れが主題となっている。

 大石内蔵助や旧赤穂藩の幹部たちは、討ち入る先の吉良上野介が住む本所松坂町屋敷の詳細な状況を知りたがった。そこで、江戸滞在組の一人元近習、岡野金右衛門に命じて何とか屋敷の絵図面を入手するよう求めた。

 吉良は刃傷事件後、江戸城外の鍜治橋から本所への移転を命じられ、新屋敷を普請したばかり。岡野は吉良屋敷の普請を手掛けた大工の家には絵図面があるだろうと考え、大工の家に小間物屋の恰好で出入りすることにした。

 大工にはお艶という娘がいる。岡野はその娘に目を着け、接近して篭絡し、「他家の旗本が近く家を普請するので、その参考にしたいと申しておるから」と言って、父親から絵図面を借りるようお願いする。

 大工の父親は「これは赤穂浪士に狙われている吉良殿の屋敷の絵図面。絶対まかりならぬ」と拒否する。だが、娘は英俊で目鼻立ちの整った岡野に徐々に惹かれていく。最初に策略のつもりで近づいた岡野も、娘の健気さに徐々に惚れていく。

 岡野は<こんな娘をだましていいのだろうか>と自らの感情の変化を感じながら、<でも、われわれには討ち入りという本望があるのだ>との思いとの間で悩む。しかし、最後は本望が上回って納得し、あくまで絵図面取りにまい進していく。

 お艶は岡野の素性を感じ、下心を知るが、でも、好きになってしまった以上、男の願いを叶えてあげたいと思い、父親の仕事部屋から絵図面を盗み、岡野に渡すのだった。

 実は、父親も岡野が商人でなく武家で、しかも赤穂藩に関係しているらしいとの素性をうすうす知っていた。かわいい娘に近づく男に父親は心底心配し、手下の者に探らせていたのだ。

 夜間、娘が絵図面を持ちだすのを父親は隣の部屋から襖の陰で見ていた。でも、かわいい娘の一途な思いに負けて、見逃すのだった。そればかりでなく、父親自身、岡野の男気にほれ込み、本願成就させてあげたいとの思いもあった。

 討ち入り成就のあと、高輪泉岳寺に戻る赤穂浪士の一行の中に岡野がいるのを艶と父親は目撃する。お艶は愛する男の本願成就を喜ぶと同時に、これがわれわれの分かれになると自覚し、複雑な感情に支配され、泣き崩れるのだった。舞台はそこで幕となる。

 新八はその最後の場面を見て、もらい泣きした。艶を演じている小亀の演技が素晴らしかったこともあったが、それ以上に自分の今の身の上に照らし合わせたからだ。

 赤穂浪士は本願成就したのに、自分は新選組隊員としての本願も、今回娘との再会を果たすという本望も遂げてはいない。そういう思いの涙だった。

 「玄斎殿。実はお艶を演じていたあの女子と知り合いでしてね。私の娘と幼いころ、一緒に育ったとのことなんです」

 新八は涙を流したことをごまかすように、隣の玄斎に話し掛けた。

 「ほう、そうですか。…美形ですね」

 玄斎は話の筋にはあまり関心がないようだった。それで新八も相手に会わせることにした。

 「確かに、私の娘もまだ生きていて、あれほど美形であれば、なんと嬉しいことか」

 中入りの幕間に、亀之助が酒と新香のつまみとおにぎりを客席にいる二人に持ってきた。

 「永倉殿。このあと楽屋に来ませんか。座長が永倉殿に何かお聞きしたいことがあると申してまして」

 それを聞いて新八は一瞬迷った。

 <座長は元熊本の武家尊攘派だったと聞く。であれば、過去の、幕末の因縁話になるに違いない。私の身内が新選組に斬られたなどという話はもう聞きたくない>

 座長が特別に会いたいと聞いて、新八は却って楽屋に向かう意思が萎えた。

 「玄斎殿。貴殿は座長に興味があるようですが、私は幕末に斬り合った過去にとらわれるのはもう嫌だ。新選組時代の話はしたくない。貴殿が楽屋に行かれるのは勝手ですが、私はお先に帰らせてもらいます」

 そして、新八は亀之助に向き直って断った。

 「小亀さんの芝居は堪能しており、満足しています。他用がありますので、芝居が終わり次第帰ります。座長と小亀さんには誼なにお伝えください」

 新八は<新選組時代の話はしたくない>という思いを亀之助には敢えて伝えなかった。

 新八は幕間におにぎりを食べたが、酒、肴は遠慮して、芝居が幕になったあと、牧田玄斎を残して先に引き揚げた。

 新八に他用などなかった。牧田道場の住み込み門弟用の一室を借りていて、そこに戻って行った。

 玄斎は芝居の打ち上げ後も、しばらく客席で酒、肴を楽しんでいた。そこに、座長の亀之丞と小亀がやってきた。

 「あれ、杉村殿はどうされましたか」

 「所要ありとのことで、一足先に帰りました」                                                            

 「いややわ。先日京都でお会いして楽しいひと時を過ごしたので、またお会いできるのを楽しみにしていたのに」

 小亀は実に残念そうだった。

 「何故に先に帰られたのか」

 「座長殿は、かつては武家で、勤王の志士であったとか。杉村殿は旧姓永倉新八と言って、新選組の幹部をされていた方ですから、今さら貴殿、勤王方と佐幕派との間で命をやり取りした話はしたくないとの様子でした」

 「そうでしたか。私もそんなことを話すつもりはなかった。でも確認したいことがあったのです」

 「ほう。それは何事?」

 「いや、それはここではやめましょう。永倉殿に直に話すまで」

 「そうですか。では、今度貴殿と永倉殿が会う機会を設けましょう」

 「それはかたじけない。ぜひ、お願い申し上げる」

 亀之丞は武家を相手にすると、やはり武家言葉が出てきた。(続く)

 上の写真は、大阪歴史博物館に展示されている資料。