大相撲ファンなんですが、今場所はちょっと見る気がしません。なぜなら、中日まで勝ち進んでいるのは白鵬、照ノ富士、加えて目立っているのは霧馬山、豊昇龍、逸ノ城というようにモンゴル人の関取ばかり。反対に日本人で勝ち進んでいるめぼしい力士はだれもいない。本来、3人の日本人大関が期待されていたのに、闇キャバクラ通いの朝乃山が謹慎処分で出場できず。貴景勝は3日目くらいに首を痛めて休場。最後に残った正代は故郷熊本県ばかりでなく、日本人全体が声援しているのにもかかわらず、やる気が見えず、勝ったり負けたりの体たらくです。
小生は民族差別主義者ではありませんが、やはり日本人力士に活躍して欲しいと思っています。さらにストレートにものを言えば、大相撲が日本文化、伝統的な神事と密接に関係していると考えるならば、本来、外国人力士はそぐわない、大相撲の土俵に入れるべきでないとも考えています。その理由の一つは、日本人と体型、外見が明らかに違う人種が土俵にいるのはすごく違和感があります。エストニア人の把瑠都などは金髪であったために髪を染めていたとか、曙はサモア人独特の縮れ毛で大銀杏を結うのが大変だったと聞いています。これは大相撲の美学に合うのか。
世界中の力自慢を集めて今の相撲ルールで大相撲をやるというなら、本来アフリカ大陸の黒人たちも入門が許可されて然るべきでしょうが、不思議なことにどの部屋も黒人は受け入れていない。かつて、戦闘竜という日本人の母親と米黒人のハーフの力士がいましたが、それ以降はいない。だれも不思議に思っていることでしょうが、敢えて口にしない、これもおかしな話です。多くの人が、黒人は大相撲の美学ににそぐわないと考えているからでしょう。
同じアジア人、さらには白人までも受け入れているのに、黒人だけを排除するというのは、今の大相撲の抱える大いなる矛盾。そうしたいなら、いっそのことすべての外国人を排除すべきでしょう。明らかにされていませんが、これまで恐らく黒人の中にも大相撲への入門希望をした人がいたと思います。ですが、選択権は相撲部屋にあるので、体よく断っていたのだと思います。これは見えない差別です。もしそういう状況があったとするならば、大相撲が恣意的に外国人を選別してるのであって、真に世界の力自慢に門戸を開いているスポーツとは言えません。
外国人を大相撲に入れるべきでないもう一つの理由は、体重が考慮されない相撲の世界では日本人と一定外国人との間に大きな体力的なハンデがあると考えるからです。草原で育ったモンゴル人、バイキングの末裔である北欧系白人、さらに海洋民族であるサモア系ハワイ人などは大柄で肥満体で、身長も高い。もともとそんな民族の人と日本人が同等で戦うのは無理があると思います。モンゴル人でも白鵬などは日本人とそれほど変わらない体型ですが、照ノ富士や逸ノ城は日本人の規格をはるかに逸脱している。この2人や昔のハワイ勢を見ていると、大相撲にも体重制限が必要だとしみじみ思ってしまいます。
外国人力士不要論の3つ目の理由として、相撲の取り口が面白くない。照ノ富士などは大柄な体格を利用して相手にマワシを与えても、大柄な故にすぐに腕を外側からかんぬきに決めて、相手を動けないようにし、決め出してしてしまう。何だか”大味”すぎた取り口で、見ている人は楽しめない。白鵬はかつて立ち合いにエルボーアタックを相手のあごにかまし失神させて、顰蹙を買いました。この立ち合いは最近自粛気味ですが、今でも張り差しは止めていない。
張り差しとは、立ち合いでいきなり相手のほほにビンタを張って自分の良い形に組み合おうとする、およそ横綱の風格にそぐわない取り口。横綱とはもともと受けて立つべき力士だが、日本の相撲の美学を理解しない彼は風格など考えていない。先手必勝、勝てば良い、文句を言うなと言わんばかり。これは日本人一般の横綱理想像から大きく逸脱しています。面白くない取り口をさらに言えば、かつて曙や小錦が立ち合いから、アメリカンフットボールよろしく突き手やぶちかましで、一瞬で相手を土俵外に追い出してしまうのもつまらなかった。
相撲は押っつけや組み合ったあと、投げをうったり、いなしたりしてバランスを崩し合うというのが本来の形。栃錦と若乃花が組み合ったような相撲が見たいと、小生は今でも思っています。昔の相撲に戻ってください。外国人を入れたら、それはできません。
上の写真は、高齢者の自動車教習を受けに行く途中、人家の庭先で見たひまわり。まだ梅雨時なので、寂しげに咲いていました。ひまわりは小生が好きな花の一つです。
I Girasoli (ひまわり/Sunflower) - Love theme from 'Sunflower' - YouTube
「ひまわり」という題名が付いたイタリア映画の傑作。このメロディーが流れてくると、ストーリーを思い出して、自然に涙が出てきます。