つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

被爆国だから、むしろ核抑止力が必要では

 正月早々、奇妙なことが起きるものです。米、英、仏、ロシア、中国の核保有5カ国が3日、「核戦争に勝者はいない。絶対にしてはならない」などという共同声明を出したこと。まあ、翌4日に核拡散防止条約(NPT)の再検討会議が開かれる予定だったので、これに向かっての形式的なパフォーマンスではないでしょうか。われわれは第2次大戦で勝利した大国だ、その他の国は核を持つ権利はないし、持つべきでないというアピールだと思われます。それにしても随分唐突だし、白々しい感じもします。本当にそう思うなら、早々に軍縮に動くべきでしょう。

 それにしても、いわゆる核廃絶運動を展開する団体はノー天気。「とうとう我々の主張が理解されたか」などと言って鬼の首を取ったみたいな喜びようです。まあ、理想主義者の”率直”な反応を笑っても仕方がないですが、現実は厳しいです。今回の共同声明は、2009年のオバマ米大統領によるプラハでの核廃絶発言のように一方的に理想論を述べるものではなく、大国同士が約束するものです。だから、オバマ演説以上に意味があるのでしょうが、彼らは別に、勝者はいないから、われわれは率先して核を廃絶するとまでは言っていません。いやむしろ、今やっていることは、核ミサイルの開発、運搬手段の更新など核兵器を有効利用する方法の模索なのです。

 冒頭の共同声明の内容は実に意味深長で、皮肉な見方をすれば、「核戦争はしてはならないが、通常兵器でなら戦争しても構わない」とも取れます。今、台湾やウクライナをめぐって大国間が対立しており、場合によっては戦火を交えるケースが皆無とは言えません。そんな時に、あらかじめ双方に「真っ先に核を使わない」との約束があれば、”安心”して通常兵器の戦いが起こせるのです。ですから、今回の共同声明は核軍縮に結び付くどころか、通常兵器戦争の開始を告げるとの見方もできましょう。

 ついでに、日本の核兵器廃絶運動にも一言。この運動を展開する団体は「世界で唯一の被爆国である日本が核兵器禁止条約に署名しないとは何事か」と主張します。分かりやすいように聞こえますが、よくよく考えてこの論理って正当ですか。被爆国である日本は核兵器を持たないし、無論使うわけがないので、われわれはむしろ相手に使わせない、核攻撃抑止の方法論を考えなくてはならないのです。ですから、「われわれは唯一の被爆国なのだから、二度と核爆弾を落とされないために最大抑止、報復力として核兵器の有効性を考える」という方が論理的だと思えます。

 国家間の交渉、付き合いでは軍事力を度外視することは考えられません。昔、学生にこう言っていました。「君らがもしやくざとトラブルを起こした際、自身で対等の話し合いができるか。相手の威圧感からたいがいはやり込まれてしまうのではないか」と。それと同じで、軍事力を背景にしないと、領土領海の侵食は言うに及ばず、普通の経済交渉であってもやり込まれる恐れがあります。それは歴史を遡らなくても、昨今南シナ海問題に関して中国のフィリピンなど東南アジア諸国への対応、ロシアのウクライナフィンランド、バルト3国への威圧的な対応を見れば簡単に分かることです。

 大国との間で日本は全面的に軍事バランスを取ることはできないが、一定の報復力は持つ必要があります。中国、ロシア、北朝鮮が核を持つならば、われわれも核兵器に頼らざるを得ない。と言っても、被爆国日本人の”脆弱な”、いやセンシィティブな国民感情から現時点では独自に核兵器は造れない、持てない。であれば、同盟国米国の核兵器に頼るしかないのです。「米国の核抑止力に頼る」のならば、核兵器禁止条約には署名できないのではないか。一方で核に頼って、一方で禁止に賛成とは大いなる矛盾、二枚舌になってしまうからです。

 理想論を言うのは実に気持ちよく、楽しく、幸せなことです。本来、全員そういう考えを持てば世の中は平和です。が、世界に悪者がいるという現実を忘れてはなりません。電車内で刃物を振り回すヤツがいるように、われわれは日常生活の中でそういうワルをいくらでも経験しているはずではないか。危機意識を常に持たなくてはなりません。平和ボケでは安穏の生活は確保できませんよ。

 上の写真は、昨年12月初め、多摩市方面にハイキングに行った時に見た紅葉。