つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

時代小説は人間の温もりを感じさせられるから

 たびたび触れているように、小生は時代小説を書いています。第一作は赤穂浪士、第二作は新選組絡みの話です。なぜ、この題材を取り上げたかというと、やはり江戸時代の歴史もので人気があるのは忠臣蔵と幕末です。幕末の中でも幕府に忠誠を尽くした、ある意味道化者の新選組は今でも圧倒的に人気があります。小生は新選組のどの登場人物を取っても愛してやまないのです。それはともかく、「お前はなぜ現代小説を書かないで、時代小説に固執するのか」と問われそうですが、それには訳があります。

 端的に言いましょう。江戸時代には機械がない、基本的にすべて人間が作った現物があるだけです。「バカ言うな、機械だって基本的には人造だろう」と文句をつける人がいることは分かります。でも、機械とか化学製品というのは温かみがないのです。例えば、桶一つとってもプラスチック桶の方がはるかに使い勝手が良く、便利ですが、木の桶の温かみはない。職人が木を斜めに削って輪状の桶をつくるのがどんなに大変だったか、そのことを考えると、小生はもうたまらなく江戸時代に憬れてしまうのです。

 このコロナ禍で新聞記者時代の仲間、大学、高校時代の友人とオンラインで飲み会をしました。もちろん、各自酒を用意していますから、酔っ払う。結構、長く話すこともありました。でも何か物足りない。そこに肌の温もりが感じられないからです。たまには手が触れる、大声で相手の唾が飛んでくることもある。でも、それが対面の良さなのです。オンライン飲み会をしてみて、しみじみ対面の良さを知りました。本来なら、コロナ禍の延長でオンラインが主流になってもいいと思うけど、今でも恒常的にやっているという人は寡聞にして聞きませんよね。

 話を戻します。江戸時代、つまり機械や化学製品のなかった時代の良さは人の温もりがあるということです。藤沢周平の時代小説がなぜあれほど受けたのか。70年代、80年代と日本がますます経済発展をしている中で、金銭至上、儲け第一という感情が蔓延して、人の温かみが失われていたからだと思います。藤沢ファンの小生としても、やはり人情がいい、機械がどれだけ進歩しても、その利便性に感動するのは一時だけで、人情の機微への感動はそれをはるかに凌駕します。

 藤沢周平には遠く及ばないけど、一歩でもそれに近づく小説を書きたい。それには、舞台は機械のない世界、過去の時代しかありません。機械がないということは、人間の感情がストレートに相手に伝わる。愛や憎しみ、嫉妬、駆け引きなどは単純で、ばかばかしいほど純粋なものに見えるからです。例えば小道具に電話を使ってしまうと、相手の顔が見えないだけに感情が相手に伝わらない。どういう目付きをしているのかが分からない。それはあたかも、オンラインで相手の唾が飛んでこない、体温を感じられないことに等しい。電話であっても、ネットのオンラインであっても本質は変わらないのだと思います。

 上の写真は、板橋駅前「近藤勇の墓」内の近藤勇像。下の紫陽花は我が家の近くに咲いていたもの。紫陽花は梅雨に合う、盛夏は似合わない。でも、もう梅雨明けとか。