つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

小説「散切り頭の新八独り旅」

第五章 津田三蔵の攘夷計画は固まった(続き)

 

 「エイヤー。メン」

 剣道防具を着けた一人が叫ぶと、「まだまだ、届かぬ」などという声が返る。

 大阪・天王寺茶臼山下にある堀越神社前の町屋の一角。早朝から、竹刀を激しく打ち合う音が響いていた。小野派一刀流の牧田玄斎道場だ。

 門弟が壁際に着座、師範代と見られる男がその門弟を次々に指名して、相手をする。

 門弟十人ほどが代わる代わる打ち込んでも、師範代に軽くあしらわれる。剣の技量には雲泥の差があるようだ。

 「柏屋」の奥座敷で前田源之助を囲む商人たちの相場師一党が永倉新八を話題にしていたちょうどそのころ、永倉新八も大阪に来ていた。壬生の八木源之丞から関西の道場回りを勧められたため、翌々日、早速大阪に赴き、天王寺近くの牧田道場を訪ねて食客となった。

 新選組には、幕末に大坂で道場を開いていて、その後に加盟した谷万太郎という元隊士がいた。牧田玄斎はその谷の剣友である。

 谷万太郎は種田流槍術の免許皆伝で、剣技も直心流を遣った。新選組で新八の親友だった原田左之助も大阪で彼の弟子となり、槍の腕を挙げている。

 谷は大阪で道場を開いていた時に、京での新選組の高名を聞き、兄三十郎、弟周平とともに三兄弟で同時加盟した。周平は近藤勇の養子にもなっている。ただ、三十郎が隊内で問題を起こし闇討ちされたことで、兄弟二人は身の危険を感じ、新選組を抜けた。

 万太郎は維新後、再び大阪に戻り、道場を再開していたが、明治十八年に逝去している。牧田は道場主仲間であった谷万太郎から、新選組のことをしばしば聞いていた。

 新選組には良い印象を持っていないが、名だたる剣客には敬意を表していた。元二番隊隊長の永倉新八近藤勇沖田総司ともにその名が知られており、牧田も新八の来訪を歓迎した。

 「池田屋でのご活躍はすごかったらしいですな。谷万太郎氏から話を聞いております。貴殿は神道無念流を遣うとのこと。わが方は一刀流ですが、強さに流派は関わりござるまい。どうかここに好きなだけ滞在して、新選組の実戦の技を門弟にご紹介くだされ。お願い申す」

 牧田はそう言って新八に道場に長くとどまるよう勧めた。

 牧田はあくまで道場剣法。だから、新八の実戦で鍛えられた剣技に興味があった。

 一刀流は戦国時代に小野忠明という剣客によって創始された。江戸時代に中西派一刀流北辰一刀流などさまざまな枝の流派を派生させたが、小野派一刀流はその名が示す通り、忠明正統の流派である。

 道場で打ち合っているのは若者ばかり。しかも武家の出身者でなく、商家のぼんぼんが暇つぶしの余技としてやっているような剣術だ。だから、武家出身の師範代にとても太刀打ちできない。

 ましてや、御一新の後に生まれた、そうした青年たちが新八に挑んでも、相手にならない。実戦剣技の前に道場剣法はほとんど通用しないのだ。

 稽古に出る新八は防具を着けずに正対し、打ち込んでくる相手の竹刀の剣先を摺り上げてかわし、その後に軽く踏み込んで相手の小手を打ち、竹刀をたたき落とした。若者は新八の剣裁きに度肝を抜かれた。

 その稽古風景を一段高くなっている客人用の席(見所)で、牧田玄斎とともに、眼光鋭く見守っている中年の男がいた。坊主頭ながら、紋付きの羽織、袴を着ていた。

 「永倉殿。お疲れでしょう。休まれてはいかが。奥の部屋で一緒に朝餉を取りましょう」

 一刻ほどの稽古のあと、牧田が声をかけた。呼び方は現姓の杉村でなく、永倉だった。新八の剣名は永倉姓とともにあると思っている。

 全体の稽古も小休止に入った。

 新八は、見所にいた男とともに、奥の部屋に入った。

 「永倉殿、この御仁は、大阪で活躍している尾上亀之丞一座の尾上亀之助さんです。亀之助さんは上方の神官の家で育った方ですが、剣もなかなか遣いますよ」

 牧田が見所にいた男を紹介した。

 「ほう、そうでしたか。よしなにお付き合いのほどを」

 新八は、尾上と聞いてもすぐに尾上小亀との関係にまで気が回らなかった。

 「永倉さんら新選組の話は、上方で今でも語り草になっています。私は当時、幼子でしたが、幕末のころの話は大変興味があります。よろしかった一度ゆっくりと話をしていただけませんか」

坊主頭が笑顔で愛想を言った。

 「われわれ新選組など、薩長支配の今の世の中では悪者扱い以外の何物でもない。当時いかに世のため、人のために働いたとはいえ、今政府にいる彼らにすべてを一刀両断にされてしまっている」

 「そう言えば、わが一座の座長、尾上亀之丞は肥後熊本の武家出身で、幕末に勤王方で働いたようです。永倉さんとは敵味方の関係にあったように思われますが、今はそんなにわだかまりもないでしょう。ぜひ一度、一座の演芸を見、楽屋を訪ねてきませんか」

 新八は演芸と聞いて初めて小亀との関係に思い至った。

 「あなたは尾上亀之助と聞いたが、尾上小亀さんがいるのはそちらの一座ですか」

 「そうです。なんで小亀を知っているのですか」

 亀之助は小亀のことを言われてはっとした。

 「先日、京都でお会いしました。あちらの方で公演があったみたいですね。娘の墓参りにもお付き合いいただきました」

 新八はそう言って、自分が娘を捜しに京都まで来たことや、すでに娘が死んでいたこと、そしてその娘と姉妹同然に育ったのが小亀で、先日一緒に墓参りをしたことなどを順序立てて話した。

 「そうでしたか。小亀とはそういう因縁がおありだったんですね。それならば、ぜひ一度、我が一座の方にお越しください」

 「実は、小亀さんからも誘われていましてね。先般、京都で会った時に、次は大阪で公演をするので、ぜひ見にいらしてくださいと言われたのです。実は、今回大阪に参った目的は、道場回りのほかに、小亀さんの芸が見たかったこともありました」

 「そうでしたか。では、よろしかったら、今日のこのあと、私と一緒に参りませんか。小亀も喜ぶと思いますよ」

 新八は急な申し出に驚いたが、これ幸いで、断る理由はない。

 「では、迷惑でなければ、同道いたしましょう」

 新八は尾上亀之助、牧田玄斎とともに朝餉を取った後、大阪の南にある「道頓堀角座」に向かった。もともと大阪に行ったら訪ねようと思っていたので、願ってもない展開になった。

牧田は、新八と亀之助の話を聞いていて、急に「私も同行していいか」と言い始めた。新八と小亀の関係、舞台芸、そして武家出身であり、元勤王方で働いたという座長にも興味を持ったのだった。(続く)

 上の写真は、大阪歴史博物館に展示されている大坂の芝居小屋風景。

自粛より希望を持たせる発言はないのか

 毎日曜日朝のTBSの情報番組「サンデーモーニング」に出てくる寺島実郎氏(多摩大学総長とか)は、口調は滑らかで話す内容も分かりやすいのですが、あまり好きなコメンテーターではありません。というのは、「俺は何でも知っている」という感じでいつも上から目線の話しぶりだからです。ですが、本日はかなり小生の考えに近いことを話されていたので、紹介します。新型コロナウイルスに対する昨今の政府、自治体の対応のことです。彼が言うには、今のコロナ対策は「自粛自粛ばかりで、われわれに希望を持たせるものが何もない」。まったくその通りですね。

 やっと非常事態宣言が明けたと思ったら、またまた感染者数が増加傾向にあり、東京都、京都府沖縄県に蔓延防止等重点阻止が出されました。政府感染症対策専門家会議の尾身茂会長も、小池百合子都知事もテレビ画面に出てくるとその都度、「外出を控えろ」「旅行はやめろ」の掛け声ばかり。いわゆる自粛要請だけで、うんざりします。こうしたマイナス思考、発言に寺島氏は怒って、「自粛自粛と言うより、政府はもっと国民に希望を持たせることを言えないのか」と主張するのです。

 希望を持たせることとは、ワクチンの接種、それから、特効薬の開発がいつになるのかという点。高齢者である我々が今、一番知りたいところですが、残念ながら、尾身会長はそうした点にあまり触れることはありません。河野太郎ワクチン担当大臣は、4月12日から一般国民に、最初に高齢者からワクチン接種を開始すると強調していました。来週初めには12日を迎えますが、高齢者の末席にいる小生のところには横浜市から何の通知もありません。恐らく市の担当部門に電話したところで、通話中か音声対応によってたらい回しにされるだけでしょう。

 寺島氏が怒っていたのは、科学立国であった日本がどうして自国のワクチンを作れないのか、それだけの技術国だったのかという点。確かに、日本は米国のファイザー、英国のアストラゼネカなど外国、特に欧米先進国頼りです。これはまあ、別の理由があって、軍事国家は当然大量破壊兵器の一種として「生物兵器」すなわち病原菌、ワクチン攻撃を構想しており、その対応策も日ごろから検討しているので、素早く「解毒用薬品」が開発されるのです。

 ワクチンが早期に進んだ国はイスラエル、中国、ロシア、米国、英国と、いずれも軍事国家です。インド、ベトナムもワクチンを自国生産していますが、中国の脅威にさらされて、それなりに軍備が充実した国です。それに比べて日本は非軍事国家、核兵器はもとより他の大量破壊兵器生物兵器化学兵器)も含めて「作らず、持たず、持ち込ませず」の三原則がありますから、兵器としてのウイルス感染症など考えておらず、したがって対応薬品のワクチンなど早々にできるわけがないのです。

 ワクチンも重要ですが、それよりさらに関心があるのは、万一罹患した時の特効薬です。安倍首相がかつて富士フィルムが開発したアビガンが有効と言っていました。ただ、この薬に関して本格的な治験があったのかどうか、実際に効くのかどうか、その後情報が出てきません。このほか、米国製のレムデシビルや、北里大学大村智教授がノーベル賞を取った発明、すなわち日本の製品であるイベルメクチンも効果がありそうだとの情報も。ただ、イベルメクチンに対してWHOは推奨しないなどという話も出てきて、ワイドショーなどでもあまり取り上げられず、しかも我々がいつ入手できるのかも分からない。いまだに暗中模索の状態です。

 アビガンとイベルメクチンが日本製であるなら、我々は喜んで受け入れるのに、その2つの薬品の動向は不鮮明です。結局、ワクチンと同様にレムデシビルのような外国製に頼ることになるのか。なぜ、日本製では駄目なのか。それとも、米国製を使うように仕向ける外圧があるのか、中間利権者が暗躍しているためか。国民全体の命に関わることを貿易不均衡の解消策や利権の対象にされたらたまらないのですが、、。

 上の写真は、満開時の千鳥ヶ淵の風景。菜の花と桜のコントラストがいい。下の方は桜木町駅前で咲き誇る花。恥ずかしながら、花名は知らず。

小説「散切り頭の新八独り旅」

第五章 津田三蔵の攘夷計画は固まった

 

 四月半ばの昼下がり、大阪堂島にある呉服商「柏屋」の奥座敷。四人の男がくつろいだ雰囲気ながら、幾分真剣な目をして茶を飲んでいた。

 春の日射しが座敷に連なる縁側にかかって、暖かい。

 桧の床柱の脇には、枝ぶりのいい松の周りに八重桜をあしらった生け花。紅梅白梅、水鳥が描かれた襖絵の上には、欄間には龍の透かし彫りが入っている。贅を尽くした造りだ。

 奥座敷に陣取ったのは、柏屋の主人善兵衛と金物卸問屋の「西門屋」の言右衛門、そして同じく堂島で古物商「摂州屋」を営む稲盛仁蔵、そして相場師の前田源之助の四人だ。

 稲垣仁蔵は先日の尾上小亀との酒席には、他用があって出なかったが、いつも堂島の米相場で前田差配の下、共同歩調を取る投資家一派の仲間だ。四人は今年後半の天候を予想し、米の売り買いの基本的な方向を決めようと集まっていた。

 真面目な話し合いの場なので、酒は出されていない。酒席はこの会合のあとの楽しみだ。

 仁蔵は甘党である。茶菓子の落雁をつまんでおいしそうに食べながら、ある天気予想屋から聞いてきた話として、寄り合いの口火を切った。

 「今夏は、好天に恵まれず、米の作況は悪くなるという情報が多い。恐らく例年以上に不作になるのではないか。だから、帳合米商いでは大量買いをしておくべきだろう」

 帳合米商いとは江戸時代中期からずっと続く米の先物取引のことである。かつて大名たちは、早く金が欲しいので、年貢米を切手化し、収穫がある前に商人たちに落札させた。切手とは一種の期限を決めた手形である。

 のちに、この米切手自体が取引されるようにもなった。だから、不作の年に事前に米切手を多く持っていたら儲けとなるし、豊作であれば、逆に損になる。

 「実はな、仁蔵さん。われわれはまったく正反対の話を聞いている。尾上亀之丞一座の小亀は、近ごろ上方で有名やから、お前さんも知っておるやろ。先日、その小亀と酒席を持った時にな、信頼できるあるお天気屋さんからの情報だとして、ちらっとこんなことを漏らしたんや。『世間では今夏の気候は荒れ模様と言う人もいるが、違う、その反対よ』と言うのや」

 「彼女が仕掛けた話ではない。われわれが話しているところに小亀がたまたま割り込んできて、そう言うんや。彼女にもいろいろな付き合いがあろう。その中にお天気予想屋がいてもおかしくないからな。『ちょっとお金儲けしたい』と言った小亀に対し、彼女の熱烈な贔屓筋であるその予想屋は、米相場の話をして、そのあとに『耳よりの情報教えてあげる。長年、動植物を観察してきた儂の目に狂いはない』と言って、天候の見立てを示したそうや。何に目を付けとるか知らんけど、独特の注目点があるんやろな」

 善兵衛が言うと、言右衛門も続けた。

 天気予想屋は、農作物の相場のためだけにあるのではない。あるいは暑い、寒いが事前に分かれば、売れる着物、売れる食べ物も見通せる。大雪、長雨があれば、交通にも影響するので、多くの人が関心を持っており、それだけに多くの人がその予兆現象を知ろうとした。

 「小亀自らが相場に手を出しているわけでなし、何かの狙いをもって人騒がせの情報をわざわざわれわれに流すわけがない。これは、たまさか聞き知った有力情報かも知れんぞ」

 「彼女はその情報源や見極めた“ぶつ”を明らかにしたのか」

 仁蔵は武家の出身だけに、話しぶりが少し偉そうだ。

 「いや、口を割らない。そういう約束だと言うのや。大方の予想の中には、今年夏の天候は不安定と読む者もおるが、小亀の話では、そのお天気屋さんはずっと当ててきたそうや、信頼できるのではないか」

 善兵衛にはかなり信じ込んでいる様子だ。

 「お天気屋さんが注目するものって、どんなんが考えられますのや」

 言右衛門が茶をすすりながら話すと、善兵衛が口をへの字に曲げて腕を組んだ。

 「例えば、蛙の鳴き方がいつもと比べてちょっと違うし、声が低いとか。五月に咲くつつじ、さつきの色の付き具合、大きさが例年とちょっと違うとか…いろいろある。長年見ていれば、相関関係は分かる」

 善兵衛が例を挙げると、言右衛門も頷いた。

 「実は、動植物ばかりでなく、川の流れ、滝の落ち具合からも分かるそうな」

 前田が口を挟む。

 「なぜ、川の流れなのか」

 「川の流れが少なければ、山は保水していない。となれば、夏に干ばつの恐れがあろう。これなどは至極単純な見極めだ」

 三人の話を聞いていた仁蔵が割って入った。

 「なるほど。とすると、今年の天候予想は固まってきたな。小亀の知り合いが何に注目したのかは分からんが、いずれにしても今年の天候は安定。今年は大量買いに入らんということか」と核心に迫った。

 大阪の商業界は御一新後、ずっと薩摩出身で、大久保利通の盟友である五代友厚の影響下にあった。五代は堂島の米市場を改組して米商会所を創ったり、北浜の株式取引所を開設したりしたほか、当地でさまざまな事業に手を出し、大きな地歩を築いた。

 ただ、五代自身は明治十八年(一八八五年)に糖尿病を患い、四十九歳の若さで没している。明治十一年に大久保利通が暗殺されて以降、伊藤博文井上馨山県有朋らの長州閥が台頭、明治二十年代の中央政界は依然長州閥が薩摩の力を圧倒していた。大阪の商業界も五代の死後、長州閥の力が及んできている。

 このため、一部の大阪商人は、そういう空気の変化を汲み取り、長州閥系にすり寄った。

 前田源之助がこの一派の中心になれたのも長州出身でもあったからだ。善兵衛らは、前田自身が長州閥の政治家に通じた人間であるかどうかはともかく、長州の出身であることに重きを置いた。

 「それで、前田はん。あなた自身はどう見るんや。業界筋の見方では今夏の天候が悪うなるとの情報が多い中で、小亀が伝える説もある。短期的には大量買いは必要ないんやなかろうか」

 善兵衛が誘い水を入れると、前田は

 「そうですなー。儂も小亀の話が妙に気になります。大方が天候悪化と言っているのなら、却って逆張りした方がいいという考えもありますからな。買いは控えた方が良さそうな感じがします。でも、最終判断はまだ。もう少し様子を見て参りましょう。仕手戦を仕掛けてくる者の中には、意図的に人騒がせな情報を流す奴もおる。今夏の天候については儂もいささか調べてみたい」と答えた。

 「それにしても」と言って前田は、ぬるめの茶を一気に飲みほしたあと、話題を替えた。

 「世の中、驚くことは多いものですよ、皆さん。幕末に京都で人斬り集団として知られた会津藩お預りの新選組はご存知でしょう。…実は、その新選組で幹部だった永倉新八という御仁がまだ生存していて、近ごろ、京都を再訪しているんですよ。私もひょんなことから会いましてね」

 「ほう、彼はまだ生きておられたか。もう相当の歳でっしゃろなー」

 いささか年上の善兵衛が聞いた。

 商家出身の二人にとっては、今は壮年の歳だが、幕末は大坂の町の家塾や寺子屋で学んでいたころの話で、幕末の京の血なまぐさい争いには関わりがない。二人よりさらに若い稲垣は因幡藩の武家の出で、やはり藩内の私塾で学んでいた時期であり、幕末のことなど知る由もない。

 「そう五十(歳)はとうに過ぎていましょうな。でも矍鑠としていましたね。京都に来たのは、新選組時代に芸妓に産ませた娘を捜すためとのことです」

 「ほう。それはなかなか興味深い話ですな。それで娘は見つかったのかな」

 「いや、私の仲間の話ではまだらしい」

 「お仲間とは?」

 前田は、どんな機会に永倉新八と知り合ったかについては触れなかった。堂島の旦那方には、自分が尊王攘夷の活動をしていることは明らかにしたくないのだ。

 「いやね。京都の友人を通して知り合ったのですが…」

 「そんな偉いお方なら、ちょっとお会いして一献傾けたい気もしますな。新選組は幕末、大阪にも出張ってきていろいろ悪さをしてはります。相撲の関取衆と大立ち回りを演じたり、大阪奉行所の与力を闇討ちしたりと、さまざまな話を父親から聞いております。永倉氏からいろいろ生の話を直に聞けたら、おもろいと思いますわ」

 言右衛門は興味深げに前田に振った。

 「では、また彼に会うことがありましたら、一度大阪にもお越しください、株仲間が会いたがっていますと伝えておきます」

 この日の会合で、前田相場師一派は今夏の帳合米商いへの明確な対応を打ち出せなかったが、方向として「大量買い付けは止めよう」という流れになった。(続く)

 上の写真は、大阪くらしの今昔館の展示。商家の店頭を表している。

文政権はレイムダック、対日強硬はできない

 韓国のソウルと釜山という2つの大都市の市長選が行われ、与党「共に民主党」系候補が大差で落選しました。まあ、これは、文在寅大統領の今の不人気ぶりからすると予想されたことですが、それにしてもこれだけ差がつくとは文大統領も市長候補者本人らも理解できなかったでしょう。4年前、「汚職」などと言いがかりをつけ、朴槿恵大統領を引きずりおろした時には、文在寅氏の支持率は8割を超えていました。それが今、この体たらくです。韓国というのはどこか抜けたところがあるようで、かつてテリー伊藤が「お笑い北朝鮮」なる本を書いてベストセラーになったけど、まさに今度は「お笑い韓国」という本が売れるかも知れません。

 左翼というのは得てして理想を掲げる傾向があります。それはそれで野党でいる時は良いのでしょうが、政権を取ると、明らかに矛盾が露呈します。例えば、最低賃金の引き上げ。文大統領は就任前、「時給の最低賃金を1万ウォン(900円強)以上にする」と大言壮語し、実際に政権担当当初は10%以上の引き上げを図り、さらに毎年徐々に上げていきました。

 その結果、どうなったか。人件費が高くなり、中小企業は人が雇えなくなって倒産が相次ぎ、その一方で、労働者は職場を失い、失業率も上がってしまいました。最低賃金というのは、その国の経済状況、生産性からはじき出されるものなのです。ただ、上げれば良いってものではありません。そんな経済の理屈も知らない人が大統領になったのがかの国の悲劇です。日本でも同じようなことを言っている政党らしき団体がありますが、、。

 文は北朝鮮と仲良くしたいとして、盛んに接近策を取りました。彼の北朝鮮に対する気遣いは相当なもので、諜報部組織を解体したり、米国との合同軍事訓練を縮小実施したりとかなりの機嫌の取りよう。で、結果はどうだったか。ケソンにある南北連絡事務所、これは韓国が建てたものですが、あの刈り上げ君の妹君に破壊されてしまいました。さらに最近では、韓国が北のミサイル発射を非難すると、あの気の強い小娘に「非論理的で、ずうすうしい」とののしられているのです。それで、文は何かを言い返しているかと言えば、沈黙を守っています。ほとんどマゾヒズムの世界。それほど文は金与正愛、”北朝鮮愛”が強いのか。

 加えて、かの国の世間もおかしい。「愛の不時着」なるテレビドラマが作られています。北朝鮮内にパラシュート着陸した金持ちの韓国女性が北の兵士に助けられ、恋に落ちるというストーリーだとか。小生はばかばかしくとても見る気になれませんが、韓国内では結構評判がよかったそうです。このストーリーが非現実的なのは、韓国のパラシュートが南北境界線を越えたら、北の兵士は戦争の兆候だとして、直ちに銃撃を加えることでしょう。それを恋愛劇にしてしまう韓国ですから、ノー天気もいいところです。

 北には気兼ねするくせに、半導体の部品提供などで大変世話になっている日本に対しては横柄は口ぶり。軍事的な情報交換のGSOMIAを破棄すると言ってみたり、戦前の「徴用工」問題で最高裁が補償すべきとの判決を出したのだから早く金を出せと言ってきたり。さらには、朴槿恵政権時代に最終決着したはずの「慰安婦」問題でもこのほどまたまた「誠意ある態度を示せ」と発言しているようです。こちらは、「いい加減にしろ」と言いたくなります。まあ、無視すればいいだけのことですが、、。あの国と話し合いなどしても、すぐ反古にされ、良い結果は生まれないのですから。

 徴用工問題で、裁判所は戦前に「徴用」に関わったとされる日本企業の現地資産を差し押さえており、「徴用工」に配るため、いつでも現金化できる状態にあるそうです。でも、日本がこの件で一切話し合いに応じないので文大統領はゴーサインを出せない。現金化すれば、外交相互主義の立場から日本も相応の報復をすることになりましょう。そうすれば、どちらが得で、どちらが損が一目瞭然です。日本側の右派系サイトでは、「韓国、早く現金化しろよ。何、ぐずぐずしてんだよ」という茶化しの発言も出ています。でも、2つの市長選で負けた文政権はもうレイムダックだし、現金化などしたら、韓国経済はさらに悪化するので、できるわけはないでしょう。

 上の写真は、桜が満開時の千鳥ヶ淵の風景。紫の花は花大根。綺麗な”雑草”ですが、今回教えられるまで、花名を知りませんでした。

「北の国から」で印象に残るシーンは

 香港に住んでいたころ、友人の銀行駐在員から「ビデオ屋から借りてきたテレビドラマだけど、『北の宿から』というが良かったよ」と言われ、「えっ」と思いました。何か都はるみのドラマが作られたのかなとも思いましたが、よくよく聞いてみると、「北海道を舞台にしている」というから、それは「北の国から」だと納得しました。彼は何年かごとに放映するスペシャル版から見ているようで、その昔に連続ドラマだったことは知らないようでした。「フーテンの寅さん」も最初はテレビの連続ドラマで、その後に映画になったのですが、それを彷彿とさせます。

 「北の国から」の主役だった黒板五郎役の田中邦衛がこのほど逝去しました。個人的にものすごく好きな俳優でしたので、残念です。ただ、享年88歳と知り、それなりの人生を生き切ったのかなとも思いました。「北の国から」が代表作ですが、東宝若大将シリーズで青大将役をやった時も、東映の「仁義なき戦い」の泥臭いやくざをやった時も、NHK大河ドラマで近藤周助役をやった時も良かった。あの朴訥としたしゃべり方、少しシャイな風貌は彼の地であるような感じがしますが、すごい個性を醸し出していました。一回見たら、忘れられない俳優です。

 邦衛さんは横浜市磯子区の住人のようで、それで同じく横浜に住む小生としてもさらに親しみを感じます。ある友人は「京浜東北線で邦衛氏を見た。ドア付近で立って外を眺めていた」と言うのです。なんかのインタビューで、邦衛さん自身電車が好きで、良く乗ると話していましたので、目撃されることは多いんでしょう。内人の友人によると、磯子駅付近を自転車走行していると、前に自転車を乗った老人がふらふらしており、そのうち横に倒れたとのこと。その友人が傍に駆け寄り「おじいちゃん、大丈夫」と言うと、その老人は振り返ったのですが、よく見ると田中邦衛だっというのです。88歳の米寿ですからもう立派な爺さん、そんなこともあるんでしょうね。

 「北の国から」は連ドラの時には、黒板五郎とその家族そのものより、富良野の住人の生きざまを描いていたように思います。だが、長時間のスペシャル版になると、完全に黒板家の家族中心の話、特に長男純の生い立ちのようなストーリーの展開になりました。それはそれで結構。純役の吉岡秀隆君は名子役であったけど、成人してもなかなかの役者ですから、主役になっても色褪せません。でも、吉岡君がすごいなと思うのは、「フーテンの寅さん」でも満男役をやっており、2つの長寿映画、ドラマに出続けていたんですね。

 田中邦衛逝去を機に「北の国から」での名場面は何かという企画がありました。で、多くが選んでいるのが、純が過失で自宅を燃やしてしまったことを告白するラーメン屋でのシーン。女性店員が強引に店を閉めようとどんぶりを片付けようとすると、五郎が「子供がまだ食っているじゃないか」と怒るところ。余談ですが、この女性店員をやっているのが伊佐山ひろ子で、この女優も小生は昔からファンでした。なんか蓮っ葉な感じで、独特の声の質を持っている。最初には日活ロマンポルノに出ていましたが、その後はふつうのドラマでも割と印象的なサブプレイヤーになりました。

 確かにこのシーンも記憶に残りますが、それと同じように残るのは、連ドラ時代、馬喰役で出ていた大友柳太朗が雪の中で死ぬシーン、富良野に来た母親令子(いしだあゆみ)が東京に帰る時にラベンダー畑の中を蛍が涙ながらに列車を追いかけるシーン、純と蛍が母親の再婚相手に簡単に捨てられてしまったボロボロの靴を捜しに行くシーン、初恋編で純とれいちゃんが小屋の中で暖を取るシーン、蛍とキタキツネの交流、純が女性を妊娠させた件で五郎と純が謝りに行くと、菅原文太が「誠意とは何かね」と叫ぶところ、五郎と宮沢リエが一緒に温泉に入るシーン。これも余談ですが、若い時の宮沢リエは実に綺麗でした。

 いやー、目をつぶれば、さだまさしのハミングとともに、一つひとつの映像が浮かび上がります。思い出を語れば切りがありませんが、実に素晴らしいドラマでした。小生の家には、「北の国から」の何回かの放映分がVHSのテープで残されています。でも、再生する機器がないのが残念です。

 上の写真は、横浜・みなとみらい地区にできたロープウエィ「エア・キャビン」。桜木町駅前から赤レンガ倉庫に行くだけで距離は短い。だから、乗る人はほとんどいないようです。つまらないものを造ったものだ。下の方は、横浜港の新埠頭「ハンマーヘッド」ビルの中にある飾り物。

小説「散切り頭の新八独り旅」

第四章 西郷隆盛がロシアから戻って来る?(続き)

 

 永倉新八は、西本願寺前の宿屋に腰を据えて、新選組時代に知り合った人たちを再訪した。四条通り西の洛外にある壬生の八木源之丞宅は、新選組が設立された当初、屯所を置いていたところで、隊士は家族同様に八木家の人たちと付き合った。

 北端を五条通りに接する西本願寺から大宮通りを北上すれば、すぐに四条通りだ。そこを西に向かうと壬生で、寺から十丁(約千百メートル)もない近さだ。

 新八が久しぶりに訪れると、源之丞は八十歳近い老境にあったが、いまだ健在で、新八の再訪を喜んだ。

 「ほうほう、永倉さん。よくぞ生きておったね。それにお元気そうで、何よりだ」

 「源之丞さんこそ。安心しました。…明治の代になったあとも生き残って、訪ねてくる元隊士がおりましょう?」

 出された番茶を飲みながら、新八が問うと、

 「おります。おります。京にいる島田魁さんはもちろんのこと、近藤芳助さんも来ましたし、隊長格では、斎藤一さんも来ました。伊東甲子太郎さんのところの鈴木三樹三郎さん、篠原泰之進さんも」

 源之丞の口からはすらすらと昔の隊員の名が出てきた。

 「ほう、斎藤君がね。近藤芳助君も来ましたか」

 明治になって、新選組斎藤一が生存していることは新八も知っていた。新選組時代に、沖田総司斎藤一は新八とともに副長助勤や組長として一隊を率いるとともに、その剣の強さを認められ、一緒に剣術師範も務めた。

 新選組が上総・流山で崩壊したあと、斎藤一会津藩に走って、会津若松城の防衛戦にも加わった。新選組会津藩お預かりの存在であったことにこだわったのだ。

 若松城落城後は、多くの藩士とともに配流先である下北半島斗南藩まで同行し、元会津藩士の娘を妻に迎えた。

 明治になって警視庁に出仕し、西南戦争では政府軍の一員として、抜刀隊を率いて西郷軍と戦った。幕末は「朝敵」であったが、九州の戦さでは「朝廷側」の人間として、かつては朝廷側だった薩摩軍と戦った。皮肉なめぐり合わせである。

 斎藤一の名は新選組崩壊とともに捨て、本名の山口二郎に戻り、さらに警視庁出仕の折に藤田五郎と改名していった。その後は、東京の高等師範で剣術を教えていた。

 新選組時代に多くの決闘や喧嘩、謀殺に関与していただけに、維新後を生きるに当たり、血なまぐさい斎藤一の名前ではまずいとの判断があったのだろう。

 斎藤の剣術流派は一刀流と言われるが、きちんとした道場で学んだ剣技ではない。左利きであったため、戦いに出る時には刀を良く右腰に差していた。左手の方が自在であり、居合いの刀を抜きやすかったのだ。

 その居合いの技は実戦慣れしてすさまじかった。これだけ見ても異能な剣士。隊内でもその強さを疑う者はいなかった。

 斎藤は新八とともに近藤勇の試衛館の食客だったが、文久三年、家茂将軍を守るため、大勢で京に向かった幕府徴募の浪士隊には加わらなかった。何か不都合があって江戸を離れ、一足先に上方に向かったという話だ。

 江戸で不祥事を起こしたからという説もあるが、真偽は分からない。

 近藤勇ら試衛館、天然理心流一派とは剣術流派が違うという点で、斎藤も永倉も異端者。だから芹沢鴨伊東甲子太郎らとの仲は悪くなかった。

 二人は新選組内の小隊長幹部として酒席を共にする機会も多かった。だが、新八は斎藤に心を許すほどに親しみを感じていたわけではない。斎藤には、時局を語れる学がなかったし、斎藤の目には一種の殺人を楽しむ、人斬りの狂気が宿っていると新八には感じられたからだ。

 新八にとっては、むしろ、近藤芳助の方が懐かしい。幕末の政府軍との戦いの中で、一時行動を共にしたことがあった。

 近藤芳助は、元治元年(一八六四年)の池田屋事件のあと、近藤勇が隊士の新規徴募のため江戸に下向した時に、加わった隊士だ。この時、伊東甲子太郎の一派も加盟したが、芳助は伊東派ではない。

 近藤芳助は、江戸・市ガ谷の生まれで、近くの試衛館道場に通っていた。近藤という姓であっても天然理心流宗家と関りはなく、近藤勇局長の姻戚でもないが、試衛館にいたので近藤勇の主流派であることには違いない。

 芳助は、鳥羽伏見の戦いを生き延び、江戸に戻り、甲陽鎮撫隊にも参加する。だが、甲州戦で敗北したあと、近藤勇新選組を離れ、会津に赴いた。

 会津では城方に詰め、旧新選組を集めた斎藤一とともに政府軍と戦った。母成峠の敗戦で城に戻れなくなり、仕方なく米沢に向かった。その道中に偶然、芳賀宜道と一緒にいた永倉新八と出くわし、しばらく行動を共にした。

 米沢で、芳助はあくまで北への転戦を主張するが、新八らは江戸に戻ることに固執。意見が割れて別行動となった。

 ところが、芳助は更なる戦いを望みながらも、土方歳三のようにうまく仙台で榎本武揚の船に乗り、函館に行くことはできなかった。仙台に向かう途中、政府軍に捕らえられてしまったのだ。

 捕虜になった芳助は、政府軍の尋問に普通の幕臣川村三郎と名乗り、元新選組隊士とは最後まで言わなかった。実際にいた川村三郎の人となりや生い立ちを知っており、その身代わりになりやすかったのだ。

 芳助は最後に幹部級の伍長まで務めたが、それほど顔が知られていないのが幸いした。新選組にいたとなれば、京時代の行動がいちいち吟味され、場合によっては死罪になることもある。普通の幕臣で通したため、一年ほどで釈放された。

 その後は、川村三郎の名で横浜に移り、市会議員、県会議員などを務め、地元の名士になった。大正十一年(一九二二年)まで生を全うしているので、新選組の生き残りの中でも最長命組の一人だ。

 源之丞は、生存隊士が訪ねてきた時の様子を詳しく新八に語った。

 「それで、永倉さんは今、何をされているのです?」

 源之丞は番茶を飲みながら、聞いてきた。

 彼にしてみれば、毎日命のやり取りをしてきた男たちが、御一新のあとに二十年も生き延びたことは奇跡としか思えない。だから、その後どう生きてきたのかは大いに興味があるところだった。

 新八は、江戸に戻ったあと旧藩松前藩に帰参し、そのあと偶然鈴木三樹三郎に会って命を狙われたので、結婚して姓を変え、蝦夷地に渡ったことなどを伝えた。

 「某(それがし)は、剣術以外に生きるすべは持ちません。五年ほど前まで蝦夷地の監獄で看守相手に剣術を教えていましたが、今は江戸に引き揚げていて、小さな道場を持っています」

 徳川の世にどっぷりつかり、文明開化など無縁の感がある源之丞にも分かるように、新八は「蝦夷地」とか「江戸」とかという昔の言葉に替えた。

 「それでこちらに来て、島田魁さんには会われましたか」

 「ええ、会いました。彼の世話で今、西本願寺の寺前の宿にいます」

 「ほう、そうでしたか」

 「実はね、源之丞さん。京でもう一人会いたい者がいるのです。いや、正確に言えば、いたのです」

 「それは?」

 「実の子供です。島原の芸妓に産ませた娘です。今回、その芸妓に縁ある人を訪ね、消息を聞きました。娘はすでに死んでいるという話なのです。墓も参ってきました」

 「ほう」

 源之丞は新八に子供がいたことは聞いていなかった。

 「ですが、…」

 新八はそう言ってしばらく言いよどんだ。

 「ですが、何ですか」

 「某は何か吹っ切れないのです。信じたくないのかも知れません」

 新八は、乳母であった岡田貞子、そしてその娘たちを訪ねたことにちらっと触れたが、詳しい話はしなかった。

 「さようでしたか。まだ、確認するまでではないと思いますので、心落としなきよう。…

 あるいは、どこかで生存していて、自分の本当の父親が元新選組隊士の永倉新八であると知れば、元屯所だったこの家に尋ねて来るかも知れませんね。まあ、生きていることを信じて、気長に待つことです。こちらに何か手がかりがもたらされたら、すぐに連絡しますよ」

 「かたじけない」

 この時、近くの木で止まっていたウグイスが「ホーホケキョ」と鳴いた。その鳥が移動したために木々がそよそよと揺れ動いて、一瞬濡れ縁や、庭木のツツジの赤い蕾に陽光を投げかけた。

 「のどかですね。隊にいたころは、ウグイスの声など気にも留めなかったけど。今ははっきりと聞こえる」

「そうでしょうね。毎日が張り詰めた状態のあの時では、なかなか風流は感じられないでしょうからね」

 源之丞はキセルから煙草を取り出して、吸い出した。

 「ところで、永倉さん。京にお越しなら、一度、上方各地の剣術道場を回られ、ご指導されたら、いかがかな。明治になってもう二十有余年、最近、また剣術が見直されてきたんですわ。新選組永倉新八と言えば、京、大阪の古手の剣客ならだいだい御存知のはず。こちらに来た路銀の足しになるかも知れまへん」

 「ほう、それは願ってもないこと。源之丞さんは、京、大阪でどなたか剣術道場にお知り合いの方はいらっしゃいますか」

 「おりますとも」と源之丞は相槌を打って、知り合いだという二、三の道場の名を挙げた。

 八木家はもともと壬生で古くからの郷士の家柄。当主である源之丞も剣術にまったく縁がないわけではない。

 「かたじけない。大阪も久しぶりだ。体もなまったし、道場でひと汗かくのもいいのかも知れません」

 それに、大阪に行くなら、ついでに先日知り合ったばかりの尾上小亀の舞台も見てみたい。小亀はどこか小常に似ている。それなら、彼女の舞台の芸を見たら、島原の宴席で踊っていた小常を偲べるのではないかという思いも新八にはあった。(第四章終わり) 


上の写真は、大阪・くらしの今昔館の資料から。

河井夫妻を見ると、議員も因果な商売

 よくよく考えてみると、議員というのは因果な商売です。当選するためには毎朝駅頭などに立ってほとんど聞く人もいないのに演説したり、見ず知らずの人に笑顔で握手したり、談笑したりしなくてはならない。やっと当選しても、有権者の機嫌を取るために何かの便宜を図ったり、陣笠の時には霞が関の役人を手なずけなくてはならない。そのくせ、マスコミ、特に週刊文春に見張られ、自由に銀座に飲みにも行けない。衆院議員であれば最長4年しかその地位が保たれず、地位を継続維持するためには、またまた見ず知らずの人にへいこらする必要があるのです。

 それでも、”年季奉公”を重ねていけば、それなりの地位を得て利権を手に入れ、ある程度の収入は確保されるのでしょう。ただ、そこまで行くのが難儀です。昨年でも訴追された河井克行(元法相)、吉川貴盛(元農相)の両議員を見ると、やっと大臣のイスに座ったかという時点で未来を閉ざされてしまいました。吉川氏は70歳、それなりのお歳なのでもう引退してもいいのでしょうが、河井氏はまだ58歳、これから政治家として脂が乗る時であり、この年齢で永田町を離れるのは無念でありましょう。

 河井氏は党本部から1億5000万円を”下賜”され、妻の案里女史の参院当選のため地元の有力者に配ったとのこと。彼はそれで公選法の買収の罪で訴追されたのですが、そもそもなぜそんな大金が党本部からこの夫妻に発せられたのかはいまだに謎です。同じ参院広島選挙区の現職自民党議員である溝手顕正氏にはこの額の10分の1程度しか出されていないというのです。まあ、2人当選のためには現職より新人に厚くという言い分はあるのでしょうが、それにしてもかなりのえこひいきのように思えます。でも、訴追されたのは河井夫妻であり、金を出した党本部の方の詳しい事情は解明されないままです。

 その河井夫妻ですが、案里女史が今年2月に参院議員を辞職。続いて夫の克行氏も最近東京地裁の尋問で「買収だった」と認め、衆院に辞職願を出すことを表明しました。一時は夫妻で国会議員という華やかな世界に浸っていたのに、今は一転、ただの無職の男女へ、天国から地獄に落ちてしまいました。克行氏は当時、おそらく妻を当選させるため必死に動いただけ、党本部、有力者の指示通りに金を配っただけなのでしょう。そう考えると、「買収」という罪の形はどうであれ、同情してあまりあります。

 本来なら議員は訴追されても刑が確定するまで辞める必要はないのですが、河井議員夫妻が任期満了前に辞職したのは多分に検察へのポーズでありましょう。もし裁判で「買収」を否定して強硬に議員を続けていけば、検察、裁判所を怒らせ、有罪、実刑にもなりかねません。一応、議員を辞めて謹慎の姿勢を示せば、当局側も「彼らはすでに社会的な制裁を受けた」として軽い扱いにする可能性が大なのです。吉川元農相も同じように議員辞職しています。これは一種の「司法取引」なのかも知れませんが、昔からある議員訴追の決着パターンです。

上の写真は、横浜・みなとみらい地区にある湾内観光船の発着埠頭「ぷかり桟橋」と「象の鼻ピア」。