つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

台湾を愛した張超英氏の「偲ぶ会」

higurashi-takanori2008-06-01

 このブログで前にもお伝えしましたように、台湾の日本代表処の元広報担当官で、昨年春にお亡くなりになった張超英さんの自伝の日本語版「国際広報官・張超英−台北・宮前町90番地を出て」が出版されたので、これを機会に5月28日、日比谷のプレスセンターで「張超英さんを偲ぶ夕べ」が開かれました。この模様は、産経新聞などでも取り上げられましたので多くは書きません。氏と交遊があった100人以上の多国籍の人が集まり、思い出を語り合いました。
 奥さんの顔千鶴さんはあいさつの中で、「うちの孫が『おじいちゃんは、友達のコレクターだね』と言っていました」と紹介していましたが、張さんは本当にだれとも友達になり、そして友達を大事にする人でした。小生のことを言えば、最初に知り合ったのは、張さんが最初に日本に赴任してきた81、2年ごろ。小生は当時通信社の外信部にいて中国担当ということで、亜東関係協会にあいさつに行くよう部長に命じられ、当時東麻布にあったその事務所で会ったのが張さんでした。
 とても紳士でしかも人懐っこい感じでしたが、なぜか目が笑わない人だなと思ったのが最初の印象でした。82年、小生が北京に赴任する前、「中国取材のヒントを差し上げたいので、ご飯でも食べましょう」と言われ、ステーキをご馳走になりながら、サシで話を伺いました。そのときにお聞きしたことは、明確には覚えておりませんが、要は中国は非民主主義の国、一党独裁であることを忘れるな、ということだったと記憶しています。
 それ以来、張さんは米ニューヨークに住んでいたこともあり、付き合いは途絶えました。ですが、張さんが94年に再び東京に赴任してきてマスコミ担当となり、小生もその年に香港に赴任し、台湾をカバーエリアにしたため、再び付き合いが始まりました。その後、小生はしばしば台湾に行き、そこで東京から出張してきた張さんと会いました。その後もずっと、台湾や米国に行ったときなど張さんに親切にしていただきました。
 彼の素晴らしさは、一つの党派、政党に縛られないこと。政府の役人でありながら、ジャーナリスティクな感覚を持っていて、絶えず、われわれに物事を俯瞰的に見る姿勢を示唆してくれました。そして、何よりも台湾という国を愛していた人だと思います。小生の記者人生の中でも、忘れられない一人です。そこで、張さんの本の翻訳執筆陣の一人に加わりました。小生の翻訳したところは、張さんが東京代表処の新聞組長(広報担当)として活躍したころの話で、小生も同じ事象を香港から追いかけていたので、翻訳していて大変興味深かったです。
 下の大きい写真は、「偲ぶ会」の前日、平河町のレストランで執筆陣5人、出版元のまどか出版関係者、本のコーディネーターの宮崎正弘さんが顔千鶴さん、息子のウスリー・チャン氏と会食したときのもの。右の写真は、「偲び会」当日、顔千鶴さんらがあいさつしているところのもの。