つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

間違いはだれにでもある

 これもちょっと古い話ですが、麻生首相が漢字が読めなくてさんざんばかにされました。確かに、多くの人が当然読める字であるのに、天下の総理大臣が間違えるというのは意外であるし、情けないとばかりに嘲笑の対象になってしまったのですが、でも、これって本当に笑える話なのでしょうか。だれでも、何でも知っているわけではないので、胸に手を当ててみると、必ずしも嘲笑できる話ではないと感じるはずです。
 その昔、記者時代、労働組合を取材対象にしていたときに、よく労連の大会を取材しました。数十万人が加盟する大単産の委員長が冒頭あいさつで、「市場開放」を「いちばかいほう」と読んだり、「発起人」を「はっきにん」と発音していたことを思い出します。また、香港時代の友人で「宗主国」を「しゅうしゅこく」と読んでいたケースもありました。最初に漢字を見たときに、自らそう読んで、そのままその音で覚えこんでしまったからだと思います。
 小生も、最初に書の中に出てきたときに「好々爺」を「こうこうじい」、「快哉」を「かいや」だと思い込んでしまいました。書の中では、どう発音するかまでは分からないですからね。幸い、公の席でこの種の発音をしたわけではないので、ばかにされずにすみました。間違いと気づいたのは、あるとき話し相手が正確に発音したときで、「ああ、そう読むのか」とひそかに思い至り、頭の中で訂正した次第です。
 つまり、そういう意味では、他人がどう読むのかチェックしたり、場合によっては聞いたりしてもいいわけで、それは決して恥ずかしいことではないと思います。日本語は多様な読み方があるのだから、「未曾有」を「みぞうゆう」と読んでも読めないことはなく、誤読が必ずしも、知的レベルに結び付くということでもないでしょう。ただ、年齢が若い時はいいですが、年を取るごとにその”未知”な部分をなくしていくことに越したことはありませんね。やはり、漫画ばかり読まずに、本を読むべきです。読み方はともかく、頭の中の抽斗に漢字が蓄積されいくことは間違いないですから。
 下の写真は、前回と同じく銀座のバーでベリーダンスをしていた女性の一人。前回紹介した女性が踊っていた時に、バーの裏の方で休んでいました。お二方とも、なかなか魅力的でした。