つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

「友愛」で外交ができるのか

 鳩山首相は、おじいさん譲りで「友愛」という言葉が好きなようです。小生はホモっぽいこの言葉が好きではありませんが、個人的に好きな言葉がどれかは他人が関知するところではないので、よしあしを議論するのは止めましょう。ただ、一国の首相が「友愛外交」「「友愛政治」などと言う形で使ってくると、ちょっと話が違ってきます。第一、外交や政治に使う場合、意味が不明瞭ですから、何を訴えたいのかが伝わってきません。今年5月の民主党代表選挙に選ばれたあとの就任演説で、鳩山氏が友愛を連発していたので、がっくりしました。
 余談ですが、友愛というとすぐに凡人は「friendship」という英語を思い浮かべますが、実は「fraternity」という翻訳の方が正確だと、我が翻訳会社にいるアメリカ育ちの仲間は言うのです。兄弟愛、同胞愛のほか、アメリカにある「社交クラブ」の訳としてこれを使うそうです。
 同じ国民として弱者を守るという意味で「友愛政治」を言うのはまだ分かります。ですが、「友愛外交」になると首をかしげたくなりますね。国家関係というのは、国益のぶつかり合いであり、それを調整するのが外交です。だから、クラウゼビッツが「戦争論」で言うように、外交の延長線上に戦争もありうるわけです。それを最初から友愛、友愛と言って外交を進めたら、相手側はそれに付け込んで譲歩を迫ってきますから、外交上のポイントは稼げなくなります。
 国際関係は常に性悪説に立って、相手国の策や罠にはまらないように注意深くしていなければなりません。1970年代にカーター米大統領が、ソ連ブレジネフ政権のアフガニスタン侵攻を見て「信じられない」と驚いたといいますが、これこそ彼が性善説に立ち、平和主義に期待しすぎたために、邪悪な国際情勢が読めなかったおめでたい指導者であったことを裏づけています。外交は相互の関係です。こちらが友愛心を示しても、それにこたえようとせす、むしろそのおめでたさを利用してやろうという国がわれわれの周囲にはゴロゴロいることを肝に銘じておかなければなりません。
 下の写真は、中国−ベトナム国境の町、東興の国境検問所付近で見かけた物売りのおねいさん。物売りにしておくのはもったいないほどの美形でした。