つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

年賀欠礼に思うこと

 今年も残り少なくなり、年賀状を書く季節となりました。小生は毎年、賀状にはこの1年にあった変化など書いていますが、今年もあまり書くことがなく、変化のない1年でした。まあ、ある程度の年齢に達すると、変化がないというのはいいことなのかもしれませんが、、。
 昨日、おつな寿司セミナ―の例会に出たら、常連メンバーのSさんから冒頭あいさつで、面白い話が出ました。それは、「毎年、年末のこの時期になると、喪中年賀欠礼のはがきが舞い込むが、この文面はいつも無味乾燥なものばかり。どうせ出すなら、1年の自分の変化や家族のことなどを書き、写真なども貼ったらどうか」というものです。
 今年、小生のところにも数十枚が来ており、確かに、年賀欠礼はがきというのは、黒か濃紺の字で、淡々と欠礼の内容を告げるだけの無味乾燥なものが多いようですね。郵便代を出して相応の負担と手間ひまをかけ、年賀状に代わるものにするのであるならば、もっと内容のあることを書いたらいいのに、小生も思います。
 それどころか、小生がいつも感じていることなのですが、年賀欠礼自体が必要なのかという疑問もあります。身内が死んだからといって、取ってつけたように年賀状だけに服喪の意を示すというのはなんだかよく分かりません。特に、かなり高齢の祖父母や両親が死んだ場合、それ一つで毎年1回きりの音通である年賀状を止めていいのか、そんなことで止めるならば毎年出す必要もないのではないかとさえ考えてしまいます。
 でも、それが日本の習慣、風習であるならば、年賀欠礼は許容するとしましょう。ただ、松の内の欠礼を補完する意味で、松が明けたら、寒中見舞いなどの形で賀状に代わるものを出し合ってもいいのではないでしょうか。日ごろ疎遠にしている友人、関係者と近況を伝えあうというのが賀状の趣旨であるなら、そういう工夫があってもいいと思います。
 下の写真は、11月末、中国人の友人と青森のりんご農家を訪ねたときに見た津軽平野にそびえる岩木山。今はもう雪に覆われていることでしょう。