つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

メダルに血眼は後進国の心情?

 冬季オリンピックの話となると、もう旧聞に属してしまうのですが、先日、翻訳会社の人と交わした会話についてちょっと報告しておきます。小生が「日本は情けないね。金メダルが一個も取れない。もう国の力は完全に韓国に負けているね」と誘い水をかけたら、当の人は冷静に「メダル獲得に血眼になるなって、それはもう先進国のやることじゃない。国威発揚発展途上国に任せておけばいい」と言うのです。
 その場は、なるほどそういう考えもあるのかと流していましたが、今日朝、テレビの情報番組を見ていたら、ロシアのメドベージェフ大統領がロシアの金メダル獲得数が少ないこと(3個)を怒り、担当のスポーツ大臣を首にすると息巻いていました。かつてはソ連としてアメリカと世界の覇を競ってきたあのロシアは十分先進国であるはずなのに、今でも、金メダルにこだわっているのかと意外な驚きがありました。
 フセイン時代のイラクは、国際サッカー試合で負けた選手を鞭打ちのうえ、牢屋にぶち込んだそうです。おそらく国際試合にそれだけ国威発揚をかけていたからでしょう。東京オリンピックが開かれた発展途上時代の日本は今以上にメダルにこだわりがあったような気がしますが、それは日本の力を世界に認めさせたいという国威発揚が背景にあったことは否めないです。
 それが、先進国の一員となり、ハングリー精神も衰えて、国際試合であっても結果にそうこだわらない風潮が出てきたのは間違いないと思います。同胞として、確かに勝てばうれしいが、負けても「よくやった」というおおらかな声援をかけたくなるそういう優しい、悪い言葉でいえばマナぬるい雰囲気になってきたのも当然の帰結と言えば、その通りでしょう。
 こうした風潮を裏付けるように、くだんのテレビ情報番組でも、オリンピック憲章では、あくまで選手個人同士の争いであり、国同士の競いなどどこにも書いてない、したがって、国籍などそうこだわることないのではないかというもの分かりのいい意見でまとめていました。大リーグに日本人選手が行ったり、大相撲で外国人力士が活躍したりなどしてクロスボーダーで選手が行き来するときに、確かに国籍など関係ないという意見はある程度、人をして納得させるものがあります。
 しかし、果たして、選手が所属する国はそれほど重要なことではないと言い切れるのでしょうか。われわれの政治制度、経済制度の枠組みを決めているのは国単位であり、しかも日本のような単一民族ですと(アイヌは少数なので無視します)加えて文化、言語、習慣も国単位で一体化しており、こうした枠組みへの帰属心、同一感は無視できないものがありましょう。その一体感の発露として、国が富んでいようが、貧しかろうが、同じところに帰属する人間に親しみを感じ応援するというのはごく自然な感情です。
 所属する国という単位への帰属心や愛着を感じられなければ、他の国への尊重も、他の国の人間への思いやりも生まれないと小生は思うのです。国威発揚などと考えずに、自然な感情として日本の選手を応援し、活躍を期待したいと思います。そしてわれわれはまた、一体感の象徴として日の丸を掲げていかなければなりません。
 訪問する機会の多い三軒茶屋の山本悦夫宅に行く途中、コンビニ店のビルの上にキングコングがいます。最初はびっくりしました。