つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

”八百長”処分は致し方ないところ

 大震災の余韻が冷めやらぬ中で、大相撲八百長問題での力士処分の内容が明らかにされました。日本の国技の不祥事に関することなので本来なら大問題であり、マスコミでも重要ニュースにとして取り扱われるところですが、震災、原発関連のニュースの中で、埋没してしまった感があります。
 ある評論家が「大相撲とはスポーツ的な伝統文化である」との言い回しで、取り組みに情実が入りこむことを示唆していましたが、小生も再三指摘していますように、大相撲とはだいたいそのようなものだと思っています。所詮、2人でやるものですから、人情が絡んで勝敗が決まることは自然であり、また、われわれもそれを特に咎めだてしないできました。
 ちなみに、小生は八百長相撲と人情相撲は分けて考えています。八百長相撲とは、暴力団が盆主となった相撲賭博などに絡んだり、あるいは高額の金を相手側から受ける約束をしたりで勝敗をあらかじめ決める取り組みのことで、そういうものは基本的に許されないものと思っています。
 関取は1年6場所各15日間、つまり365日のうち90日の戦いを強いられるわけですが、これがすべてガチンコの取り組みであったら、体が持たないでしょう。そんなことは視聴者の多くの人がとうの昔に感じていることであり、それが故これまで部分的な”人情取り組み”に目くじらを立てることはなかったのです。もし、全部ガチでやれと言うならば、1年90日間の興業日程は無理であるし、ガチで通すならばけがすることを前提に公傷制度を復活させるべきです。
 今回の処分者23人を見ると、幕内の下の方の番付者、さらには十両、幕下などの力士に限られています。彼らの間で金が動いたようにも見えますが、基本的には十両あるいは幕下に落ちることを避けるための”互助会”的なものであり、どちらかと言えば、人情相撲の範囲でしょう。
 しかし、人情であろうと、本気でなければ、やはり世間は許してくれません(小生は許しますけど、、)。まあ、これは今後大相撲人気の存続を図っていくためには致し方のない犠牲者だと思っています。人情相撲の対象者を過去の関取や幕内上位者まで広げてしまうと、もう興業は成り立たなくなってしまいます。多くのファンを納得させる処分としては、この程度で手を打つのが妥当なのではないでしょうか。
 上海・延安西路にあるリンロンホテルの中庭。