つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

原子力利用は長期的視野で

 小生は原子力発電の在り方について、特に定見を持っているわけではありません。これは大きな問題であり、福島第一原発で事故があったからといって、拙速に方針転換していいという問題ではありません。しかし、菅首相を見ていると、閣内での議論も経ず、個人的な見解に近い形で世間に「脱原発」を発表しています。この人の政治家としての姿勢を疑います。
 小生の意見を言えば、原子力の兵器には反対だが、平和利用ならいいというのは一種の矛盾だと思います。それは、どちらも危険性を孕んでいるからです。現実に即して言えば、兵器としての核は、広島、長崎以降使われていません。その兵器のすごさにどの指導者も使用をためらい、結果、大規模戦争の再発を抑止してしてきました。それだけに、核兵器は厳重に管理されてきたのだと思います。
 しかし、原子力の平和利用は、むしろ推進され、昨今では、地球環境にやさしい、温暖化を食い止める最高の方策として歓迎されてきました。しかし、チェルノブイリスリーマイル島、今回の福島第一の事故を見れば、実際に世界は核兵器よりこの原発の脅威にさらされているのです。つまり実態は、核兵器と同様に危険なものであり、最大限の配慮が必要であるのに、「平和」というオブラードにくるまれたためか、なぜか安全管理がおろそかになっていたように思います。
 日本を見ると、「被爆国であるので、絶対に核兵器など持たない、作らない、持ち込ませない」と言っておきながら、安全保障で米国の核の抑止力に頼っていると平然と言い、さらに「平和利用」の名目でがんがん原発建設を進めてきました。
 今回の事故は、こうした論理、行動矛盾を神がとがめたものであると思えてならないのです。核兵器がいやなら、米国の核の傘に頼るべきでなく、「平和利用」も止めるべきでした。逆に、平和利用をする以上、安全保障上の最大抑止を考えて、核兵器の独自開発も進めるべきでした。
 福島第一原発事故は、こうした日本の大きな方向性を再考するきっかけにもなったはずです。ですから、退任間近の一人の首相が思いつきで独自見解を出すのではなく、10年後、20年後、いや50年後、100年後の将来を見据えて、安全保障、エネルギー政策全般から原子力利用を考えていくことが大事だと思います。
 下の写真は、山梨・下部温泉の旅館「大黒屋」の風呂。同行したマオナン先生が気持ちよく入浴しています。