つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

「平和念仏」だけでは平和は来ない

 毎年、8月15日の終戦記念日前後になると、各テレビ局は第二次世界大戦、日本流に言えば大東亜戦争の話題を取り上げることが多いです。この中で、いつも気になるのが「戦争はもうころごりだ。平和が大切だ」という声が多く出てきて、戦うことはすべて完全悪と切り捨ててしまうことです。
 確かに戦争など望む人はほとんどいないと思いますが、世界を眺めるに、残念ながら、今でもごく一部に暴力的な人、勢力がいるし、独裁国を中心に覇権主義的、拡張主義的な国家が存在します。ですから、侵略戦争も防衛戦争も一緒くたにしてはなりません。われわれは邪悪な勢力に対し戦う気構えが必要なんだと思います。
 どうも終戦記念日番組は「平和、平和」と唱えているだけで、平和が達成できると思わせるような作りになっています。国家主権や自由と民主主義という制度を守りながら平和を得るためにどうすればいいのか。むしろ、その方法を模索することこそが重要なのではありませんか。
 他国に侮られず、対等な外交交渉をしたり、相手の侵略の意思を抑えたりするためには軍事的な力も背景にしなければならないことは自明の理。それなのに、終戦番組はいつもそういう視点が欠如しています。軍事力を高める、強調することは即他国への侵略を目指しているのだと思い込ませるような感じになっています。今どき、日本が他国を侵すことなどできますか。ありえない。
 では逆のケースで日本が狙われるとき。番組関係者は、軍事力がなくても相手を説得できる、国家間で対等の話し合いができると思っているようですが、そんなことができないのはすぐに分かること。われわれが図体のでかい粗暴そうなやくざ者や、刃物やピストルを持ったりしている人と面と向かっている時に対等の話し合いができないのと一緒です。
 あるいは、憲法上の制約があるので、今後、外国とは戦ってはならない、どこかの国が攻めて来ても手を挙げて身を任せればいいとでも主張するつもりなのか。これは先のブログでイスラミック・ステートの例を挙げたので二度と触れません。良い結果が望めない、極めて危険な対応です。
 さらには、日本の防衛も、国民は一切手を出さず、米国に任せておけばいいなどと考えている人もいるようですが、これには反論する気も起きません。プロイセンの軍人・外交官、クラウゼビッツは著書「戦争論」の中で、「戦うことを厭う国家、民族は必ず征服される」と指摘しています。
 終戦記念日の時こそ、「平和念仏」は止めて、もっと冷静に平和を得るための安全保障の方策を考えていかなければなりません。

 上の写真は、岩手県平泉の毛越寺の池で咲いていた蓮の花。