つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

「子供はどれだけ黒くなる」の疑問は差別なのか

 ちょっと旧聞に属しますが、英国王室のヘンリー王子とメーガン妃に対して、人種差別的発言があったとのニュースがありました。メーガン妃が妊娠中に、王室内の誰かが「子供の肌の色がどれだけ黒くなるのか」と彼女に聞いたらしいです。ヘンリー王子夫妻は米メディアとの独占インタビューで、この話を暴露し、「黒人差別ではないか」と訴えました。このニュースを見て小生はなんか変だなと思いました。というのは、西洋人と結婚した東洋人に対し、他人が「腹の中の子供の目は青くなるのかな」と聞いたら、やはり差別発言になるのでしょうか。それとあまり変わらないと思うけど。

 最初に断っておきますが、小生は、肌の色などに優劣はなく、逆にブラック・イズ・ビューティフルだと思っています。ですから、なぜ世間は黒にこだわるのか、黒人が黒色の肌になるのは当たり前だし、問題ない、肌の色で意味なく劣等感を持つ必要はないという考え方です。ご承知のように、メーガン妃は父親は白人、母親は黒人ですから、王室内のだれかがメーガン妃に問いかけたことは、ある意味自然な疑問で、その中に差別的意味合いがあるとは小生は思いません。そう感じるとしたら、メーガン妃自身に黒人の血を引いていることへのうしろめたさがあるからです。

 小生はれっきとした黄色人種ですが、白人に劣等感を感じることはありませんし、黒人に優越感を持つこともありません。米国では知的レベルの高い立派な黒人がいますし、運動能力が高いカラードも多くいます。逆に、根拠なく「白人至上主義」「白豪主義」を掲げる無知、無教養な白人もいます。実は、彼らこそ、白人なのに相応の地位、報酬を受けていないという劣等感の裏返しなのですが、、。だから、人種、肌の色は人間の優劣とまったく関係ないと思います。まず、黒人が、われわれはもともと人類発祥の地アフリカ大地の人間であるという自負を持ってほしい。

 よくよく考えると、このヘンリー王子夫妻もいかがなものかという感じがします。米メディアとの独占インタビューに応じたことで数億円の報酬を受けたとのこと。英王室にいた立場を利用して高額の謝礼金を受け取っていながら、その王室を批判するのはルール違反でしょう。しかもその批判内容も愚にもつかないもので、必要以上に誇張している感があります。英王室に本当に黒人差別意識があったとしたら、もともと黒人混血児のメーガン妃との結婚は許さなかったと思います。

 ヘンリー王子の方も、妻の肌の色は重々了解していたわけですから、王室内でそういう質問、疑問が出てくるのは先刻承知の助。であれば、今さら、テレビに出て、「差別発言があった」などの”告発”はないでしょう。高額報酬を受けたので、視聴率アップのために話題作りしているとしか思えません。まあ、今は王室を離脱したそうで、しかも新たな地位、職業も見いだせないのであれば、英国王室出を売りにしてインタビューで金儲けするしかないのかも知れませんが、、。

 ついでに言えば、日本人でも、長年世話になった、生計(たつき)を立ててくれた古巣の企業、団体に対し、辞めた後に悪く言う人、悪口で金儲けしている人はいます。が、後ろ足で砂をかける行為は感心しません。小生も30年世話になった会社があり、途中で辞しましたが、感謝こそすれ、決して悪口を言うことはありません。それぐらいの礼儀はわきまえているつもりです。

 上の写真は、横浜港大さん橋の入り口にある有名レストラン「スカンディア」。

「散切り頭の新八独り旅」その3

第三章 娘の消息を尋ねて(続き)

 

 陽が西に傾きかけた昼下がり、京都四条通り八坂社前の茶店「御多幸」で若い女性二人が落ち合い、茶を飲んでいた。

 「姉さん、お久しぶり。元気にしてはった」

 「何とか、頑張ってるよ。吉も元気そうやね。京都の公演は確かに久しぶりやし、お前とも久しぶりやな。このところ、お母ちゃんの墓参りもようできんかったから、ほんに申し訳ないことに」

 「かまへん、かまへん。元気でいることが一番やから、草葉の陰でお母ちゃんも喜んでいるやろ、姉さんが活躍して」

 「今、北座でやっている芝居、吉も友人誘って見に来てな。切符あげとくよってに」

 芝居は赤穂浪士をめぐる女たちの物語。浪士を愛した武家娘や妓女の切ない別れの話だった。

 「おおきに。ほなら、見に行かさせてもらいますわ」

 求肥を食べながら煎茶を飲んでいる一人は、先日、新八が訪ねて行った鹿ケ谷のお貞宅にいた女性、岡田吉。もう一人、ほうじ茶だけを飲んでいるのは、近くの芝居小屋「北座」で公演中の大阪道頓堀尾上亀之丞一座の看板女優、尾上小亀だ。

 小亀は吉の姉、つまり岡田貞子の長女伊都である。

 小亀は自身を岡田貞子の実の娘伊都と思っているが、実はそうではない。貞子は自ら腹を痛めた子供をはやり風邪で早くに亡くしたため、同時に乳を与え育てていた磯を我が子伊都の身代わりとして育てたのだ。

 貞子はそのころ小駒から頼まれ、もう一人の娘をもらい受け、育てた。

 「妹(小常)から『義理ある人の娘ですさかい、ぜひ磯と一緒によしなに』と頼まれたんや」と小駒から聞いている。貞子は<育てるなら二人も三人は一緒>という鷹揚なところがあり、引き取った。それが吉だ。

 貞子は磯をずっと祇園で身辺に置き、吉の方はしばらくして鹿ケ谷の実家の方に託した。新八から託された五十両があったし、小駒からも実妹の子供だけに相当のお世話代が支給されていた。

 それに引き換え、吉は小駒が預かっていたとはいえ、母親は行方不明だし、父親がだれかも分からない、みなしご同然。貞子の心の中には、二人の娘の扱いに違いが生じたのも無理はない。

 実の娘を亡くしたあと、貞子はますます磯を実の娘のように思い込み、周囲にもそう吹聴した。

 祇園で一緒にいた実子を亡くしたことは、鹿ケ谷にいる両親にも伝えにくかった。そこで、死んだのは磯の方だと報告した。はやり風邪で死んだのは、実の娘でなく、芸妓から預かった小磯だと言い張った。

 嘘も百回言うと真実となる。貞子の頭の中では、生きているのが伊都で、死んだのが磯という思いで凝り固まった。鹿ケ谷からそう遠くない小寺にある実の娘の墓標にも「永倉磯」と書かせた。

 小駒にしても、吉は、実妹の子である磯と違って血のつながりがないだけに、それほど親身の感情は湧かなかったようだ。貞さんに養育を頼んで、貞さんも吉を父母に任せきりにした。

 <お母ちゃんやばばさまの私への態度は「伊都」姉とは違う。自分は実子ではないのかも知れない>と幼少のころから吉も薄々感じ、しばらくしてそれが確信となった。

 それでも、吉は「伊都」姉を慕い、仲が良かった。「伊都」が貞子に連れられて鹿ケ谷の実家に来ると、一緒になって良く遊んだ。お弾きをしたり、魚採りをしたり。「伊都」が芸妓の稽古で覚えた踊りを教えたこともあった。

 当時の二人は知る由もないが、実は、吉は藤堂平助と胡蝶の間の娘。奇しくも、新選組の同僚として仲良く接し、最後は刃を交えた元新選組隊士二人の娘が姉妹同然に育ったのだ。

 「あんなあ、伊都姉さん。驚いたらあかんよ。この間、鹿ケ谷の家に、妙な老人が訪ねてきたんよ。その人、お母ちゃんが芸妓さんから引き取ってすぐに亡くなったという磯さんの父親と言うねん。杉村義衛とか名乗ってはったわ」

 「そうかあ、磯さんのなあ」

 小亀も自分は岡田貞子の娘伊都であると思い込んでいる。

 極々幼少のころの、母親が「この子の父親は戦で死んでしまったのだろうか。音沙汰ないなあ」などという言葉を話していたことを微かに覚えているが、それは自分でなく妹吉のことではないかとも思っていた。

 貞子の夫は、薬問屋の手代だった。羽振りが良かったころに店のご主人とともに祇園に来て遊んでいた。と言っても、芸妓を侍らしたのは店のご主人だけで、貞子の夫はご主人を待つ間、別室で小膳を前にちびりちびりと酒を飲むだけだった。

 そこで仲居として給仕していた貞子と知り合い、懇ろになった。祇園近くに同居し、しばらくして伊都が生まれ、同時に磯を引き取って乳を与えた。

 貞子の夫は御一新のあとも祇園で一緒に暮らしていたのだが、明治五年ごろに他界した。酒の呑み過ぎが原因だと小亀は聞いている。

 物心がついたころの小亀にもこの「父親」の記憶はある。不思議なことにその中で、父親から強い愛情を受けた思い出はない。なぜかよそよそしかった。

 「この子の父親は死んでしまったのか」という母の言葉は、ひょっとしたら自分の父親のことを言っているのではないのかと思ったりした。自分とは縁が薄い、死んでしまった父親のことなど詮索しても仕方がないので、子供のころは深く知ろうともしなかった。

 だが、真実を知る母親は、自分が尾上亀之丞一座に入ったあとに死んでしまった。いつでも話が聞けると思っていた人はいなくなってしまった。その時に思ったことは、母親からもっと商家の手代をしていた「父親」のこと、妹吉の本当のことも聞いておくべきだった。小亀は後悔している。

 「それでな、杉村さんは今、西本願寺の宿坊にいはるそうや。お母ちゃんの墓も磯さんの墓も同じところにあるのやから、姉さんがお母ちゃんの墓参りするのやったら、その杉村さんも誘って一緒に墓参りしてもろたらどないやろか」

 「それはいい考えやわ。私も昔、お母ちゃんから、祇園で姉妹同然に育った磯さんのこと、忘れたらあかんよと言われてはったからね。その方が磯さんのお父さんやったら、私も関係ないこともないわ。墓参りしたいやろうしね」

 「そうやろ」

 「でもな、今芝居で忙しいのや。墓参りは北座の公演が幕になったあとでやね」

 「分かった。その人、お西さん(西本願寺)の宿坊にいる島田さんという人に連絡すれば、話が伝わると言ってはったから、連絡しとくわ」

 吉はそう言って求肥をおいしそうに平らげた。(第三章終わり)

 上の写真は、京都・島原の有名料亭「角屋」の外観と案内板。

「糞便微生物」で禿げが治るのは本当か

 政府はコロナ感染対策の緊急事態宣言を2週間延長したのですが、それも今週末で期限切れです。世間は、「感染者数がリバウンドしているので、再々延長すべきだ」という主に医療関係者辺りからの意見と、「宣言が出ていても感染者は減らず、延長しても意味がない」という主に飲食業、サービス業方面の意見が対立、テレビのワイドショーなどでもかまびすしく議論されています。では、お前はどうかと問われれば、やはりもう宣言など無駄、直ちに止めにしてほしいと思っています。

 政府が非常事態宣言を出しても、世間は”宣言慣れ””耳慣れ”してしまって、まさに狼少年の掛け声のよう。ですから、宣言なるものを延長したところで、人々の活動は停止されません。強権力のない日本ではもう限界なのです。小生は基本的に新自由主義者で、個人のことはあくまで自身で管理せよ、あまり政府に頼るなという考えの持ち主ですから、今後、一人ひとりが感染のリスクを考えて行動し、その結果について自身が責任を負えばいいと思っています。

 感染を恐れない、考えない人は自由に外に出ればいい。でも、そういうやつは政府に対し感染対策が甘いなどと文句を言うべきでないし、医療体制の不備を問題視してもいけない。罹患しても、自業自得なのだから文句を言ってはならない。粛々と寝込むか、集中治療室に入れば良い。逆に、感染を怖がる人は、なるべく外に出ず、出るときは厳重にマスクをし、人込みには行かないなどの徹底した防止策を取るべきです。政府が強硬策を発揮できない国の感染防止策は、個人個人がどれだけ注意するかにかかっているということでしょう。

 コロナの話は飽きました、話題を変えます。香港の華文ニュースを読んでいたら、面白い記事を発見しました。今、ストレスフル社会の中で、激務のサラリーマンに「円形脱毛症」の症状が見られることがあります。その数、1000人に一人の割合とも。で、米コロンビア大学の研究チームがこのほど、円形脱毛症状を持つ人に対しある治験をしたところ、「脱毛と消化器系臓器の健康状態が多いに関係ある」という結論を得たそうです。つまり、消化器系臓器内にある「糞便微生物」なるものが育毛と大いに関係があるとのこと。ちょっと尾籠な言葉で申し訳ないのですが、原文にはそう書いてあります。

 コロンビア大学研究チームは、消化器系臓器が健康な人に対し胃カメラようの管を胃や結腸などに入れて「糞便微生物」サンプルを取り出し、それを脱毛症の人の消化器臓器に移植したところ、患者の免疫力が上がり、毛が生えてきたというのです。脱毛症とは免疫異常によるもので、ストレスなどで毛根が傷つけられてしまうためだそうで、胃腸内の細菌バランスをうまく保てば脱毛問題は解決するとのことです。

 これはコロンビア大学だけでなく、一般的な学説のようで、香港メディアによれば、中国広東省の「広東薬科大学」附属病院でもある医師が同様治験をトライしています。86歳の男性に対し、6度にわたって「糞便微生物」の移植を行ったところ、4週間後に新しい毛が生えてきて、1年半後には頭頂部が完全に毛で覆われ、しかもその髪は白でなく黒色であったとのこと。これは円形だけでなく、頭髪全体の話というのですから驚きです。

 世間一般の男性は、育毛の話には大いに関心があります。が、多くの人がこれまで、毛の生育と胃腸内細菌バランスが関係あるという話を耳にしたことがないと思われます。この移植法によって、広東省の病院のように、円形だけでなく、総後退型の脱毛症にも効果があるとしたら、悩みを抱える諸氏には朗報です。小生自身はまだボールドにはなっていませんが、老齢化に伴い、徐々に髪が細くなり、しかもその数は減ってきていますから、関心を持たざるを得ません。

 上の写真は、横浜港大さん橋から見た風景。何組かのカップルがウェディングドレスを着て写真を撮っていました。最近は中国、台湾などの真似か、屋外で結婚写真を撮るのがはやりのようです。

「散切り頭の新八独り旅」その3

第三章 娘の消息を尋ねて(続き)

 

 そして、もう一人の背広姿の男が話し始めた。

 「お初に目にかかります。私は大河内多聞と言って、実は土佐出身です。津田の仲間に、新選組と争った長州と土佐の出身者がいたとは杉村さまも驚かれたことかと思われます。でも、これも何かのご縁でしょう」

 「そうか君は土佐者か。……土佐者ともよく剣を交えたな」

 新八はそういったあと、一息入れて突然思い出したように幕末のある事件の話に切り替えた。

 「でも断っておくが、坂本龍馬を斬ったのは新選組ではないぞ。これだけは断っておく。坂本は最後に幕府の力を認めておった。だから、公武合体を言い始めたのだ。新選組もばかではない、ちゃんと時局を見ていた。実力で幕府を倒すことなど考えていなかった坂本を利用することはあっても、斬るわけがない」

 「それは承知しております。でも、時局が読めない幕府の慮外者がやったことには間違いないでしょう」

 坂本龍馬を斬ったのは、新選組と同じように当時京都の治安を担当していた京都見廻組の連中だと言われている。新八もよく知っている佐々木只三郎今井信郎幕臣旗本出身の江戸武士たちが河原町近江屋にいた坂本と中岡慎太郎を襲ったのだった。

 新八も当時、そのことは聞いている。

 大河内も武家の出ではあるが、脱藩者の坂本龍馬が斬殺されたなどというのは、まだ幼少のころで実感はない。当時は高知城下におり、土佐を離れたのは明治の御一新後しばらくしてからのことだ。

 「それはそれとして、お主は何をされている御仁か」

 「私は、大阪に出て読売(瓦版)の手伝いをしていましたが、その後、土佐出身の板垣退助先生の自由民権運動に触発され、その運動のお手伝いをしてまいりました」

 「ほう、板垣退助か」

 板垣退助は、戊辰の役で会津城包囲戦の指揮を執った男だ。新八は会津城に入ろうと現地まで行ったが、考えを変えてすぐに会津を離れたので、当時敵将がだれかなど知る由もなかった。御一新後、戊辰の役の事情が徐々に分かってきて、板垣が総大将として会津に来ていたことを知った。

 板垣は、会津城落城の功績が認められて参議に列せられ、新政府の中枢にいた。だが、明治六年(一八七三年)の御所内会議で西郷隆盛とともに征韓論、朝鮮への派兵を主張。大久保利通岩倉具視らの反対を受けて、その論が通らなくなると分かると参議を辞した。

 征韓論を主張して同じく下野した土佐の後藤象二郎、佐賀の江藤新平副島種臣らとともに愛国公党という政治結社を作り、民選議院設立に動きだした。征韓論下野組はその後、地元に戻って武力決起する者も出てきた。江藤新平佐賀の乱前原一誠萩の乱西郷隆盛西南の役などだ。

 これらの決起が不首尾に終わると、多くの武士は力ずくで政府を倒すのは虚しいことと理解し、以後は言論をもって国民を煽動し、政治的な力を結集させる立場を取った。それが自由民権運動だ。

 「私は、大阪で細々と商人たちの下世話な噂話を詰め込んだ瓦版を発行し、それで生計(たつき)を図る傍ら、板垣先生率いる自由党という政党作りのお手伝いをしていました。先生はご立派な方です。戊辰の役では一軍の将となり、新政府の重役に就きながらも、まったく威張ることはなかった」

 自由党は、板垣が愛国公党のあと作った政党だ。板垣、大隈重信ら旧参議は、西洋の制度を模倣する本格的な政党作りを始めていた。

 津田が前田源之助や大河内多聞と知り合ったのも、ある自由民権弁士の立ち合い演説会の場であった。

 「そうであったか」

 「伊藤博文薩長藩閥政治家も帝国議会を作らざるを得なくなったのは、自由民権運動があったればこそですから、それはそれでわれわれも満足しています。ただ、幕末に結ばれた不平等条約はいまだ改正されていない。改正要求しても、諸外国が言うことを聞かないのです。実にけしからんこと。そこで、われわれが先陣を切って攘夷の実を挙げ、欧米列強を脅して、再考を促さなければならないと思うのです」

 演説会の自由民権弁士は、日本の政治制度の不備を指摘するばかりでなく、西洋人が我が物顔でわが神州を踏み歩き、物価を釣り上げて人民を虐げようとしているとも訴えて、聴衆の喝采を受けていた。三人は大阪でのそういう煽動演説に魅せられて同志となった。

 自由民権運動の勃興の影響もあって、政治制度は出来上がっていった。明治二十二年(一八八九年)に大日本帝国憲法明治憲法)が発布され、それに基づいて翌二十三年十一月に第一回の帝国議会が開かれている。新八が京都に来たのはこの翌年のことだ。

 殿様がすべてを差配する幕藩体制下で年少期を過ごしてきた新八には、議会などという組織の中身も役割もおよそ理解できなかったが、<これも文明開化、時代の進歩の一里程なんだろう>とは思った。

 「君らの素性はだいたい分かった。それで、仲間を募って何をやりたいというのだ」

 すると、大河内が続けた。

 「本心を言えば鹿鳴館を焼き払いたいのですが、鹿鳴館はすでに宮内省に払い下げられていて、今では外国人を招いての舞踏会はなくなっています。でも、そのほかの場所では相変わらず西洋人を呼んでの会合は続けられているように聞きます。そうした館に火をかけ、西洋人やその迎合者を葬るか、それとも街中で西洋人を襲うことも考えています」

 「随分、物騒な話だな。だが、そういう襲撃ならば、儂の力など借りなくても貴公らで十分できるであろう。儂は、剣は達者だが、火薬を扱ったりするのは苦手じゃでな」

 新八は、話を引き出すために関心を持つ素振りをした。

 「確かに、大河内君の言った行動だけなら、われわれだけで十分できましょう。問題は旗頭です。統領です。この行動の統領が元新選組永倉新八殿だとしたら、政府に与える衝撃は大きい。その意味で永倉さんの力が借りたいのです。三人でその考えにまとまりました」

 津田が一段と大きな声を上げて新八に迫った。確かに、外国人襲撃があったとして、その首謀者が一介の邏卒、相場師、民権活動家であるよりは、元新選組二番隊長である方が世間に与える衝撃は違ってくる。

 新八は<この歳で今さら、政論を吐き、壮士になって実際の行動に走るなどとてもできない>と思いながらも、三人の熱い言に敢えて反対も疑問の声も挟まなかった。自分も若いころに、こういう政論を吐き、命のやり取りをしたのだから。

 「貴公らの考えは相分かった。じゃが、今のところ、話は漠としている。もう少し計画を煮詰めてからにしてもらえまいか。儂が協力するかどうかはその後に決めようぞ。もうしばらく京におるつもりだ。他言はしない」

 新八はそう言って三人との話を打ち切った。(続く)



 上の写真は、京都・建仁寺の正門と中庭。

中国の”北風”は却って反発心を増す

 昨日、用事があったので、強い雨が降る中、渋谷まで行ってきました。驚くことに雨中にもかかわらず、道玄坂は結構な人出。傘を差しているので、歩道は渋滞となっていました。「えー、今、非常事態宣言が発出中だよね、なぜこんなに人がいるの」と思わず自問自答したくなってしまいました。もう時期は春、人の心は浮き立っています。非常事態宣言を2週間延長したところで、外に出たいという人の欲望を抑えることはできません。非常事態は、最初の時は効果があったのでしょうが、何度も出ると狼少年になってしまうのかも知れません。

 話題を変えます。最近、中国は台湾からのパイナップル輸入を禁止しているとのニュースが入ってきました。台湾の蔡英文政権が米国寄りになっていることへの報復なんでしょうか。実は、中国大陸は台湾の果物の最大輸出先なんです。ですから、中国当局がストップすると、台湾の特に南部の生産農家は大打撃を受けます。台湾人は同胞と言っておきながら、隋分ひどい仕打ちです。またまた、中国は政治的な不満要因があると、それをもって経済で報復するという挙に出たのですが、大国にしてはなんと情けない、余裕のない態度だと思います。

 農産物、牧畜製品というのは、消費期限が限られているので、輸出入は手早さが求められます。だからこそ、中国は、税関でわざわざ厳密に品質検査を行い、輸入時期を遅らせたり、さらにエスカレートして輸入自体を禁止するという嫌がらせに出たのでしょう。相手に打撃を与えるために。その輸入管理の厳格さというのは、中国にとって友好国か非友好国か、早い話、中国の言うなりになる国か、そうでないかによって大きく差を付けるから、たちが悪いのです。

 台湾パイナップルの前には、オーストラリアからの農産物の輸入を禁じました。モリソン首相が新型コロナウイルスの発生源について、中国に独自の調査団を派遣してはどうかと提案したのが原因。つまらないことに中国は怒ったものです。オーストラリアにとって中国は最大の輸出相手国で、輸出総額の4割を占める。農産物としては牛肉ばかりでなく、大麦、ロブスターなど、製品としてはワイン、さらに原料としては鉄鋼、石炭の”大物”もある。だから、中国はオーストリアの輸出ルートを抑えれば、かの国は困って根を上げるだろうと思ったのでしょうね。

 でも、イソップ物語の寓話ではないですが、国も人間も北風のような強風が吹きつけてもへこたれない。むしろますます反発心が沸いてくるものです。一昨日のオンラインによるクワッド(日米豪印の4カ国)サミットに見られるように、モリソン首相は米国、日本、インドとの連携を強め、むしろ対中国包囲網により加担する姿勢を示しています。やはり、北風より太陽の方がはるかに本来の目的が達せられることを中国は知らないようです。

 かつて岩礁の領有問題で反中国的な態度を取ったフィリピンのアキノ大統領に怒り、税関でフィリピン輸入バナナの厳格チェックをやり、腐らせてしまいました。反体制作家で、獄中で死亡した劉暁波氏がノーベル平和賞を受賞した際、北京当局は、平和賞を管理するノルウェーに不快感を示すため、同国の大きな輸出産品である鮭の輸入をストップしました。また、尖閣諸島問題でトラブルになった時には、日本へのレアアースの輸出を禁じました。

 度量の狭い国の仕儀です。だが、日本はこれによって第三国にレアアースを求めたほか、レアアースを使わないモーター用磁石を開発したりして、むしろ技術の発展につながりました。災い転じて福と成すです。中国の嫌がらせで台湾パイナップルの輸出先がなくなるのであれば、西側の友好国が助ければ良い。日本も積極的に台湾パイナップルを輸入してはどうか。台湾産は芯まで食べられるという高級品ですから、もっともっと旺盛に食べましょう。

 上の写真は、横浜港大さん橋に着岸していた大型客船「飛鳥」。

「散切り頭の新八独り旅」その3

第三章 娘の消息を尋ねて(続き)

 

 「杉村さま。客人が見えていますよ」

 京都滞在四日目の早朝、永倉新八西本願寺近くの宿屋にいて、そこの主人にたたき起こされた。

 新八は西本願寺の宿坊に二晩泊まり、近くの旅館に移った。西本願寺には、新選組が屯所にしていた当時の僧がまだ残っており、島田魁を訪ねてきた老人が元新選組隊士ではないかと気づき始めたからだ。

 この寺の僧たちはもともと長州贔屓で新選組に好感を持っていない。いや、むしろ反発心の方が強かったかも知れない。

 「西本願寺は長州とつながっている」として、新選組は僧たちに何かと嫌がらせをしたからだ。実は、西本願寺を屯所にしたこと自体、嫌がらせの意図が含まれていた。境内で大砲の試射をしたり、食用のために豚を放し飼いにしたりしていたのを、僧たちは不快そうに見ていた。

 新八は、今おとなしく寺男をしている島田魁に迷惑がかかってはならないと太鼓楼を離れた。でも、島田と連絡が取りやすいように門前の旅館、尾張屋を京の宿とした。

 そこに偉丈夫な元武家風の男三人が訪ねてきた。この旅館にいることは島田から聞いたのであろう。

 玄関に顔を出すと、見知った顔だった。二日目に鹿ケ谷を訪ねた帰り、サーベルで仕掛けてきた男だった。

 「津田君とか言ったか。…何の用か」

 「杉村さま。早朝から済みませぬ。仲間を紹介しようと思い、連れてまいりました」

旅館への配慮からか、津田は永倉さんとは言わず、杉村さまと言った。

 玄関に立ったのは、津田のほか、三十歳を超えたと見られる二人の男。一人は壮士風で、黒地の羽織、仙台平の袴を履いていた。髪も長く、ひげ面でもあった。

 もう一人の男は壮士然の男と正反対に文明開化にふさわしい洋装だった。珍しくも茶系の三つ揃いの背広を着こなしていた。

 津田はこの日は邏卒の恰好でなく、厚手の単衣で着流し姿だった。

 「勝手に連れてきてしまい、申し訳ありません」

 「そうか。では、部屋に上がって話をするか」

 「いや、杉村さま、ここではまずいですから、静かなところに参りましょう」

 要は、他人に聞かれたくないことを話したいということであろうと察しが付いた。

 「相分かった。では、しばらく待たれよ」

 新八は着替えてから、三人を外に連れ出した。

 津田が誘った先は、なんと伊東甲子太郎の殉難碑がある本光寺だった。伊東が落命したところでもあり、御一新後、殉難碑が建てられた。朝敵新選組と戦った討幕側の烈士の扱いになっているのだ。

 ここの桜は陽光を受けやすいところにあるためか、すでに満開近い。その花の上の青空の中に藤堂平助の顔が浮かんだ。斬られたあとの苦渋の顔だった。

 「津田君、この寺がどういう寺が承知しているか」

 「いや、分かりません」

 「そうか、分からなければそれで良い。ただな、儂にとってこの場所は忘れがたい場所なのだ」

 新八はそう言ったが、具体的にどういう場所だったかは言わなかった。言いたくもなかった。<若い奴らには分からなくてもいい。あれは、幕末の狂気の時だったのだから>と独り思うだけだった。

 寺の境内は早朝故、人気もない。境内の四阿に新八を囲んで三人が座った。

 「津田君から先生のことを聞きました。私は前田源之助と申します。まだ子供の時分でしたが、新選組のことは聞き及んでいましたし、強く印象に残っています。何を隠しましょう、実は私は長州出身ですから」

 羽織袴の無精ひげの男が切り出した。杉村が永倉新八であることはとうに話されているようだ。

 「なんと、そうかね。君は長州藩の出身でしたか。……昔はよく長州者と剣を交えたな。でも、今は何のわだかまりもない。実はな、ここに来る前は蝦夷地にいて、樺戸集治監という監獄に奉職しておった。看守に剣術を教えるためだ。看守の中には長州者もいたし、囚人の中にも長州がいた。確か、萩の乱で捕まった者だった」

 「え、萩の決起に加わった者がいましたか。…実は私も前原軍に加わり、政府軍と戦いました。まだ十代の年頃でしたが…」

 萩の乱とは、松下村塾にも学んだ元長州藩前原一誠が首領となって起こした反政府の戦さだ。国民皆兵の徴兵制度の導入で武家の存在が否定されたことに怒った士族の反乱と言われている。

 「そうであったか。よく捕まらないでいたね」

 「捕まりましたが、政府軍も子供は見逃してくれたのです。大人の誘いで仲間に入っただけと思ったのでしょうか」

 「で、乱が鎮圧されたあと、君はどうしていたのか。長州には居づらかったであろう」

 「そうです。で、私は大阪に出て、相場師になったのです。杉村殿はご存知かどうか分かりませんが、米とか絹とかは時々の需要によって値段が動く物品です。それで、先を見越して事前に売ったり買ったりするのが相場師です。実際の売買価格がその見越した額より下回っていれば、こちらの儲けになるし、上回っていれば損をする。そういう商いです」

 前田は得意気に話した。壮士然としていたが、その実、商売人だったのか。見た目の恰好とやっていることの開きの大きさに、新八は驚いた。

 「それで儲けたのかね」

 「儲けることは儲けましたよ。ただ、金を貯めても虚しい。武家の心意気は遠退いてしまいます。萩の決起は何だったかとずっと思い続けています。ですから、今でも憂国の情は変わりません。この神州日乃本が異国の者どもに汚されてはならないということです。私は幕末の志士たちが持っていた攘夷の心は間違っていなかったと今でも思っています。だが、伊藤博文井上馨は欧米の麾下に成り下がってしまいました」

 前田は、ただの商人かと見られるのを打ち消すように、同郷の先輩をけなしながら、武家としての熱い思いを吐露した。(続く)

 上の写真は、京都・東福寺の回廊。

ミャンマーのならずもの政権、承認する国はない

 ミャンマー軍部はいったい何を考えているのか、理解に苦しみます。「先の総選挙で不正があった」などと、トランプ米前大統領みたいに根拠不明の言いがかりを付けてクーデターを起こし、権力を強奪。人民がそれに反対し、デモや集会を行うと、無闇に銃をぶっ放す。すでに50人以上の無辜の民が殺害されたとか。今どき街の暴力団だってこんなアコギな真似はしない。人民ばかりか、多くの公務員の支持もなく、今後ずっと政権を維持していけると思っているのか。ヒステリックになっているとしか思えません。

 政治学で言うところの国家成立の3要素とは、一定の領域があって、そこに住む人民がいて、さらに主権、制度があることとなっています。ですが、国際関係論的に言えば、さらにもう一つ条件があって、それは他国がその国を承認して外交関係を結べるかどうかという点です。いかに「我が国は独立したぞ」「この領域で政権を確立したぞ」と叫んでも、他国が知らんぷりしていれば、それは対外的に「国家」とは言えないのです。

 かつて井上ひさしさんが小説「吉里吉里人」で、日本の一部を独立させるという奇想天外なストーリーを書きましたが、諸外国の承認行為がなければ、日本から独立した国ということにはなりません。近年でも、中東のイラク、シリアの一部領域を支配したイスラム過激派武装集団が「イスラミック・ステート」などと「state」を名乗って「国家」形成の振りをしましたが、だれからも「国家」として相手にされなかったことからも一目瞭然です。

 他国から見れば、ある国がクーデターや侵略を受けたことなどで政権が変わった場合、外交関係の継続を求めて、改めてその国を承認する必要が生じます。現在、ミャンマーでは、国内の人民が軍事政権に反対しているばかりか、一部の公務員、ミャンマー国連大使など海外外交官も反旗を翻しています。したがって、従来外交関係があった国々は改めてミン・アウン・フライン軍事政権の正統性を吟味しなくてはならないのです。で、改めてフライン政権を見ると、だれにでも銃をぶっ放すならず者集団の集まりですから、ほとんどの国は承認に値しないと見ていると思います。

 クーデター勃発当初、軍部の背後には中国がいる、中国が操っているという噂が飛んでいました。中国は今、盛んに「他国の内政には干渉すべきでない」と半ば軍事政権を認めるような素振りを見せていますので、そう疑われても仕方がない。ですが、よくよく見てくると、中国はアウン・サン・スーチー政権とうまくやっていました。彼女は、雲南省からベンガル湾のチャウピューに至る鉄道・道路ルート、石油パイプライン建設の中国利権に反対していませんし、むしろ中国資本が入って喜んでいたフシもありました。

 中国は軍事政権ができて新たな混乱が生じることなど望んでいなかったでしょう。ですから、中国がクーデターの後ろ盾になっているというのはうがった見方です。今、中国は明らかにフライン政権の承認をためらっています。先鞭をつけて外交関係を持てば、これまでも西側に良く見られなかった中国の対外的な評価はさらに下がってしまううからです。また中国は、フライン政権自身にかなりの無理があって、安定しないと見ているフシもあるので、しばらくは積極的に動かないのではないかと想像できます。

 欧米、日本など西側はもちろん、人民を敵に回し、民主主義を粉砕した軍事政権と外交関係など持つ気はありません。同じASEAN諸国も模様見です。となると、軍事政権は対外的に四面楚歌が続きます。国家は単独では生きていけない、まして発展途上国はそうであるので、軍事政権はいずれ窮地に陥る。諸外国の要求を呑んで、一定の原状回復策を考えざるを得なくなります。フライン司令官がいつ正気に戻って、妥協策に出るのか、どんな条件を出してくるのか。今、注目されるのはその辺りです。

上の写真は、横浜関内の大通り公園内で見た早咲きの桜と花壇の花。