つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

「散切り頭の新八独り旅」その3

第三章 娘の消息を尋ねて(続き)

 

 そして、もう一人の背広姿の男が話し始めた。

 「お初に目にかかります。私は大河内多聞と言って、実は土佐出身です。津田の仲間に、新選組と争った長州と土佐の出身者がいたとは杉村さまも驚かれたことかと思われます。でも、これも何かのご縁でしょう」

 「そうか君は土佐者か。……土佐者ともよく剣を交えたな」

 新八はそういったあと、一息入れて突然思い出したように幕末のある事件の話に切り替えた。

 「でも断っておくが、坂本龍馬を斬ったのは新選組ではないぞ。これだけは断っておく。坂本は最後に幕府の力を認めておった。だから、公武合体を言い始めたのだ。新選組もばかではない、ちゃんと時局を見ていた。実力で幕府を倒すことなど考えていなかった坂本を利用することはあっても、斬るわけがない」

 「それは承知しております。でも、時局が読めない幕府の慮外者がやったことには間違いないでしょう」

 坂本龍馬を斬ったのは、新選組と同じように当時京都の治安を担当していた京都見廻組の連中だと言われている。新八もよく知っている佐々木只三郎今井信郎幕臣旗本出身の江戸武士たちが河原町近江屋にいた坂本と中岡慎太郎を襲ったのだった。

 新八も当時、そのことは聞いている。

 大河内も武家の出ではあるが、脱藩者の坂本龍馬が斬殺されたなどというのは、まだ幼少のころで実感はない。当時は高知城下におり、土佐を離れたのは明治の御一新後しばらくしてからのことだ。

 「それはそれとして、お主は何をされている御仁か」

 「私は、大阪に出て読売(瓦版)の手伝いをしていましたが、その後、土佐出身の板垣退助先生の自由民権運動に触発され、その運動のお手伝いをしてまいりました」

 「ほう、板垣退助か」

 板垣退助は、戊辰の役で会津城包囲戦の指揮を執った男だ。新八は会津城に入ろうと現地まで行ったが、考えを変えてすぐに会津を離れたので、当時敵将がだれかなど知る由もなかった。御一新後、戊辰の役の事情が徐々に分かってきて、板垣が総大将として会津に来ていたことを知った。

 板垣は、会津城落城の功績が認められて参議に列せられ、新政府の中枢にいた。だが、明治六年(一八七三年)の御所内会議で西郷隆盛とともに征韓論、朝鮮への派兵を主張。大久保利通岩倉具視らの反対を受けて、その論が通らなくなると分かると参議を辞した。

 征韓論を主張して同じく下野した土佐の後藤象二郎、佐賀の江藤新平副島種臣らとともに愛国公党という政治結社を作り、民選議院設立に動きだした。征韓論下野組はその後、地元に戻って武力決起する者も出てきた。江藤新平佐賀の乱前原一誠萩の乱西郷隆盛西南の役などだ。

 これらの決起が不首尾に終わると、多くの武士は力ずくで政府を倒すのは虚しいことと理解し、以後は言論をもって国民を煽動し、政治的な力を結集させる立場を取った。それが自由民権運動だ。

 「私は、大阪で細々と商人たちの下世話な噂話を詰め込んだ瓦版を発行し、それで生計(たつき)を図る傍ら、板垣先生率いる自由党という政党作りのお手伝いをしていました。先生はご立派な方です。戊辰の役では一軍の将となり、新政府の重役に就きながらも、まったく威張ることはなかった」

 自由党は、板垣が愛国公党のあと作った政党だ。板垣、大隈重信ら旧参議は、西洋の制度を模倣する本格的な政党作りを始めていた。

 津田が前田源之助や大河内多聞と知り合ったのも、ある自由民権弁士の立ち合い演説会の場であった。

 「そうであったか」

 「伊藤博文薩長藩閥政治家も帝国議会を作らざるを得なくなったのは、自由民権運動があったればこそですから、それはそれでわれわれも満足しています。ただ、幕末に結ばれた不平等条約はいまだ改正されていない。改正要求しても、諸外国が言うことを聞かないのです。実にけしからんこと。そこで、われわれが先陣を切って攘夷の実を挙げ、欧米列強を脅して、再考を促さなければならないと思うのです」

 演説会の自由民権弁士は、日本の政治制度の不備を指摘するばかりでなく、西洋人が我が物顔でわが神州を踏み歩き、物価を釣り上げて人民を虐げようとしているとも訴えて、聴衆の喝采を受けていた。三人は大阪でのそういう煽動演説に魅せられて同志となった。

 自由民権運動の勃興の影響もあって、政治制度は出来上がっていった。明治二十二年(一八八九年)に大日本帝国憲法明治憲法)が発布され、それに基づいて翌二十三年十一月に第一回の帝国議会が開かれている。新八が京都に来たのはこの翌年のことだ。

 殿様がすべてを差配する幕藩体制下で年少期を過ごしてきた新八には、議会などという組織の中身も役割もおよそ理解できなかったが、<これも文明開化、時代の進歩の一里程なんだろう>とは思った。

 「君らの素性はだいたい分かった。それで、仲間を募って何をやりたいというのだ」

 すると、大河内が続けた。

 「本心を言えば鹿鳴館を焼き払いたいのですが、鹿鳴館はすでに宮内省に払い下げられていて、今では外国人を招いての舞踏会はなくなっています。でも、そのほかの場所では相変わらず西洋人を呼んでの会合は続けられているように聞きます。そうした館に火をかけ、西洋人やその迎合者を葬るか、それとも街中で西洋人を襲うことも考えています」

 「随分、物騒な話だな。だが、そういう襲撃ならば、儂の力など借りなくても貴公らで十分できるであろう。儂は、剣は達者だが、火薬を扱ったりするのは苦手じゃでな」

 新八は、話を引き出すために関心を持つ素振りをした。

 「確かに、大河内君の言った行動だけなら、われわれだけで十分できましょう。問題は旗頭です。統領です。この行動の統領が元新選組永倉新八殿だとしたら、政府に与える衝撃は大きい。その意味で永倉さんの力が借りたいのです。三人でその考えにまとまりました」

 津田が一段と大きな声を上げて新八に迫った。確かに、外国人襲撃があったとして、その首謀者が一介の邏卒、相場師、民権活動家であるよりは、元新選組二番隊長である方が世間に与える衝撃は違ってくる。

 新八は<この歳で今さら、政論を吐き、壮士になって実際の行動に走るなどとてもできない>と思いながらも、三人の熱い言に敢えて反対も疑問の声も挟まなかった。自分も若いころに、こういう政論を吐き、命のやり取りをしたのだから。

 「貴公らの考えは相分かった。じゃが、今のところ、話は漠としている。もう少し計画を煮詰めてからにしてもらえまいか。儂が協力するかどうかはその後に決めようぞ。もうしばらく京におるつもりだ。他言はしない」

 新八はそう言って三人との話を打ち切った。(続く)



 上の写真は、京都・建仁寺の正門と中庭。