つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

小説「散切り頭の新八独り旅」

第五章 津田三蔵の攘夷計画は固まった(続き)

 

 このころ、滋賀県警邏卒の津田三蔵も大阪に来ていた。前田源之助、大河内多聞と会合を持つためだ。一人は滋賀県、二人は大阪にいるのであれば、中間の京都が会合の場にふさわしいが、京都は今、自由民権運動を抑え込むため、警察の目が厳しい。

 それに、前田の相場師の仕事が今、佳境に入り、大阪を離れることができなくなったからだ。そこで、津田はわざわざ大阪まで出張ってきた。

 会合の目的は、攘夷実行の具体的計画を進めることだった。

 集会の場所は、土佐堀川から南北に掘り進んだ横堀川をしばらく下った信濃橋、北御堂近くの居酒屋「伯楽」であった。

 この居酒屋はもう電灯を使っていた。店内は明るく、食卓、椅子のしつらえも洋風な感じであった。ただ、店員はあくまで単衣、前掛けの恰好で、これまでの雰囲気と変わらない。

 「どう、津田君、計画はできたかね」

 ちょっと年長の前田が聞いた。

 「西郷の動きが分からないので、計画が立てにくいのです」

 三人は、間もなく来日する予定のロシア皇太子を襲撃しようという線で計画を練っている。ただし、西南の役で生き残り、ロシアに逃亡したと見られる西郷隆盛が皇太子に随行しているといううわさがある。それゆえに、状況は読みにくい。

 「資金は儂が用意する。間もなく帳合米取引が始まり、この商いで幾分儲けられるだろう。鉄砲くらいは買えるであろう。実は、すでに貿易商社の連中に、洋式銃購入で話をつけてある」

 前田の話はかなり具体的であった。

 「大河内君、自由民権運動は今、どうなっている。秩父事件加波山事件(いずれも一八八四年発生)で民権派が弾圧されて、もうだいぶ経つが、依然意気消沈したままか。それとも、帝国議会が開設され、もう草の根の運動は必要なくなったのか」

 「そうです。帝国議会が創設され、政党人も議員となってそちらの方に取り込まれています。我が師板垣退助先生は昨年、いくつかの政党を束ねて立憲民主党という政党を立ち上げ、議会で第一党になったのです。本来ならば、最大勢力の政党で内閣を作ってもいいのですが、薩長が邪魔して、成りません。立憲民主党は今年、議員の一部が長州閥山県有朋内閣に与したため分裂し、板垣先生は自由党という新党を作っています」

 板垣退助は、立憲民主党を作った翌年の明治二十四年(一八九二年)、薩長に対抗して独自に政党内閣を作ろうと自由党を創設し、肥前佐賀出身の大隈重信と連携し、新しい政治結社、民党連合を作った。

 新八が京都に娘捜しに訪ねたこの時期、京、大阪でも各所で民党連合の運動を盛り上げるための集会が持たれていた。だが、板垣、大隈の努力も虚しく、政党による内閣の創設はならなかった。

 「読売(瓦版)を見る限り、板垣さんもたいへんなようだね。まだ総理どころか内閣の一員になることも考えられないのであろう」

 前田が続けた。

 「恐らく、そうでしょう」

 大河内は、板垣が議会人になっても依然、薩長藩閥に抑え込まれていることを憂いていた。

 「ところで、君の生業(なりわい)の新聞の方はどうかね」

 「新聞はますます売れていますよ。印刷機が良くなり、大量に発行できるようになりましたから。新聞を見た大衆は、中央の政局に関心を持ち出しています」

 「では、新聞は民権派の後押しはできているようだね」

 「はい」

 「ならば結構」

 当時の新聞は藩閥政治憎しで、一貫して民権派擁護の論調であった。ただ、帝国議会の発足によって民権派が大勢議員になっても、伊藤や山県、井上馨ら維新の元老たちは依然政権を掌握している。組閣は帝の大命によるものと言っても、それは形の上だけであって、元老らが具申する人事案が通るからだ。

 「政党が政府をつくるのはまだ無理でしょうね」

 大河内の声はいささか低くなった。

 だが、政党人が幅を効かすのはそれほど遠い先の話ではなかった。

 ちなみに、板垣が初入閣するのはこれより四年後の明治二十八年(一八九五年)の第三次伊藤博文内閣の時である。この時、日清戦争の真最中であったほか、西欧列強との条約改正交渉にも迫られていた。藩閥政権側に、民権派の逸材も政府に引き入れたいとの思いがあったのだ。

 さらに、最初の政党内閣ができたのは日清戦争のあと。皮肉にも藩閥政治にも強く関わってきた大隈重信が、板垣退助とともに組閣した明治三十一年(一八九八年)の憲政党隈板内閣だった。新八が京都を訪れたこの年から七年後のことである。

 洋風の電灯に照らされた店内は結構明るい。明るい分だけ、焼き魚や野菜の煮しめの肴も幾分うまそうに見える。

 津田は大河内から注がれた灘の酒をうまそうに飲みながら、本題に入った。

 「恐らく、西郷は姿かたち、名も変えて、ロシア皇太子に同行するに違いありません。外国の賓客ですから、日本側も同行者の素性を調べにくいでしょう。場合によっては、洋風の名を使い、軍装などして皇太子に侍っていることも考えられます」

 「であれば、皇太子が車列で来れば、先導役の西郷が先頭にいて、恐らく皇太子は二番目か三番目の馬車であろう。皇太子本人を傷つければ、大いなる外交問題になってしまうので、われわれの攘夷の意思を示すだけなら、最初の馬車を襲えばいい」

 「そこに西郷が乗っていて、彼を傷つけたとしたら、大騒ぎになり、それだけでわれわれの所期の目的なかなりのところまで果たせることになります」

 「なるほど、そうかも知れぬな」

 「では、改めて確認したい。われわれの攘夷行動は、ロシア皇太子一行を襲うこと。ただし、皇太子自身を傷つけるのは避け、車列の一番に来るであろう、西郷を狙うということ。如何であろうか」

 津田が念押しすると、前田と大河内は頷いた。(続く)

 上の写真は、大阪の古地図。