つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

小説「散切り頭の新八独り旅」

第四章 西郷隆盛がロシアから戻って来る?

 

 新選組の元二番隊長、永倉新八が京都に着いた新暦三月末で、桜の花は咲き始めであったが、一回り(一週間)たったので満開になった。もう一回りすれば、花から葉に変わってしまうだろう。季節の廻りは早く、朝晩も春の白い日射しが感じられるようになった。

 新八は相変わらず西本願寺前の旅館尾張屋にいた。壬生を歩いたり、祇園を回ったりして娘の消息を訪ね歩いたが、依然つかめないままだった。

 もちろん、再度鹿ケ谷の岡田貞子の家も訪ねた。

 新八は、吉も他所から引き取られたと聞いたので、吉はひょっとしたら、藤堂平助の遺児ではないのかと推測した。

 そこで、吉と会って、「あなたの母親の名は胡蝶という名ではないのか。父親は藤堂平助と聞いていないか」と聞いたが、否定された。

 吉はもらい子であるとは自覚しながら、義母の貞子から岡田の家を守るよう難く言われていたし、自身も岡田家の人間と思い込もうとしていたので、知らないふりをした。事実、胡蝶とか藤堂平助という名は聞いたこともなかった。

 ただ、吉は「小磯さんの墓参りをするのなら、ご案内します。姉の伊都もご一緒したいと言ってました」と新八に告げた。

 新八は、虚しく辞去するしかなかった。

 

 その翌朝、旅館で朝餉を食しているときに、また来客があった。滋賀県警邏卒の津田三蔵である。

 この日は、彼一人だけだった。少し息を切らして、慌てるような素振りだった。

 「いかがした」

 新八が尋ねると、津田は声を潜めて「いや、杉村様。大変なことが分かりました。…世間が知れば、大騒動が起きそうなことです」と話し出した。

 その興奮ぶりが尋常でないと見た新八は急いで朝餉を済ませ、近くの本光寺に誘った。寺の境内の桜の木は満開を過ぎて葉桜になりつつある。

 「で、大変なこととは」

 「警察内で噂になっていることです。幕末、永倉新八殿のような幕府方にとっては敵であった薩摩の西郷隆盛ですが、御一新の立役者になり、その後政府に反逆し、西南の役を起こし死んだと言われていますね。私も西南の役に従軍しましたから、因縁ある御仁です。その彼が今も生きているというのです」

 「ばかな、そんなことはなかろう。信じられない話だ」

 西南の役が終わって、すでに十四年の歳月が流れている。

 「いや、永倉さま。西郷は城山で死んでいないというのです。西郷は宮崎での戦いに敗れ、薩摩軍の残兵を率い、鹿児島に戻って城山に籠りましたね。私も参加した政府軍の一斉攻撃を受けて大将の西郷も出撃し、銃撃されたので、それで覚悟を決めて、切腹したと聞いています」

 伝えられる話では、西郷は総突撃の途中で足を撃たれて動けなくなり、そこに居座った。腹心の別府晋助に「もう、ここいらでよか」と呼びかけ、切腹の形を取り、首を討たせたと言われている。

 津田にとっても西南の役は忘れられない出来事であり、西郷は敵として身近に接した男なのだ。

 津田は、西郷が城山で討たれたとされる明治十年九月の半年前、三月、熊本で戦う西郷軍の背後を突くべく日奈久(八代)に上陸したが、直後の戦いで左手に銃弾を受けた。長崎の病院で手当てを受けた後、十分な回復もないままに再び政府軍の戦線に復帰。最後の城山の戦いにも後方支援として参加している。

 「西郷が腹を切った話は儂も聞いている。敵ながら腹の座った立派な男だと思うておる」

 新八は西郷の面影を追った。

 「ですが、実際はいささか違うようです。西郷は側近の説得に応じて、一斉攻撃の前にひそかに城山を脱出し、阿久根方面に向かったというのです」

 西郷の城山脱出説は、西南の役の直後、その余燼が冷めやらぬうちから出回っていた。

 津田の説明では、友人の大久保一蔵(利通)が城山の西郷にひそかに伝令を遣わした。それは西郷家の家僕の熊吉であると言われ、鹿児島から政府軍に参加し、西郷も顔を知っている軍人も農夫の恰好をして同行したようだ。

 大久保の伝言は、「おはんが死ぬのは忍びない。もう日本の表舞台に出ん、当分、海外で暮らすっとばいうことで、山を下りたらどげんか」というもので、脱出を説得した。

 西郷は城山まで付き従って来てくれた部下の手前、今さら命を惜しむことはできないと思い、拒否した。

 だが、部下の多くも西郷脱出を心のどこかに秘めていた。薩摩藩、維新の英傑を今ここで失いたくない、生きていれば今回の蜂起の大義が大御心に通じ、仲間の死が無駄にならないかも知れない、その理由はまちまちだったが、、。

 そして、大久保の説得に気付いた側近らが頑強に脱出を勧めた。

 「西郷先生。この場はこらえて、再起をば、期してたもんせ」

 西郷は再起という部下の言葉で最後は折れた。重たい足を引きずって熊吉、農民に姿を変えた軍人とともに山を下りた。頬かむりして木こりの恰好だった。もちろん、武器などは携帯していない。

 脱出を認めるのは西郷一人というのが政府側の条件だった。政府軍の防衛線付近では、この脱出を承知していたように、熊吉だけに二言三言質問して三人を通した。

 西郷は阿久根に達し、そこから大久保が用意したと見られるサッパ船で沖合に出て、異国の船に乗り換えて海外に向かったという。その異国とは津田にも「分からない」と言うが、恐らくロシアではなかろうかと想像している。

 「西南の役から十年以上が経過して、その西郷は日本が恋しくなった。いや、恋しいというより、今の日本の在り様に憤慨し、再び日本を立て直そうとして日本に再上陸するのではないかと言う噂があるのです」

 「ほう、それは面白い話じゃのう」

 新八はほとんど信じていない。それで、からかうような話しぶりになった。

 「城山の戦いのあと、政府方は西郷の首実験をしたのだろう。城山であれば、西郷の身内も大勢いたであろうし、政府方にはその顔を見知った者も多かろう。首級は、それで確認されたのではないか」

 「政府方が確認したということで、多くの者は西郷の死を信じたと思います。だが、いろいろ聞いてみると、西郷の顔は傷ついていて分かりにくかったとか、確認したのは鹿児島に来ていた弟の従道ら身内の者だけで多くの者が見ていなかったとか、というあやふやなところもあったようです」

 「なろほど、西郷従道なら他の者を見ても『確かに兄様の首じゃ』くらいのことは言うかも知れんな。いや、大久保の意を受けていてそういう嘘をつくことも考えられる」

 「そうなのです、杉村様。ところで…」

 津田は話を替えた。

 「永倉新八氏でいらしたころ、つまり新選組のころ、西郷と会ったことはありますか」

 「それはある。昔、会津藩の本営となっていた京都黒谷の金戒光明寺で見掛けた。その昔、会津と薩摩は手を組んでいたからな。儂らは近藤勇局長の従者として会津中将さまに伺候したとき、たまさか見掛けた。向こうは覚えておるまいが…。恰幅の良い男で、泰然自若の風。なかなかの人物と見たよ」

 「そうでしたか。日本に来るのではないかというその西郷の件ですが…」

 津田は姿勢を正して話し出した。

 「西洋文明かぶれの日乃本を立て直すために再上陸するというのなら、大歓迎ですが…。実はそうでなく、彼はロシアに逃げ込んで、かの地で暮らすうちに却って西洋かぶれになったようなのです。間もなく我が国に来訪するというロシア帝国の皇太子に同行し、戻ってくるという話です。西郷が西洋人の露払い、御先棒担ぎをするとしたら驚きですし、そんなことをされたのでは、われわれはなんのために西南の役に従軍したかが分からなくなってしまう」

 津田はいささか憤慨しているようだった。

 西郷隆盛は維新政府に逆らって西南の役を起こした。すなわち、帝(みかど)に刃を向けた者として、ずっと「逆賊」扱いであった。だが、明治二十二年(一八八九年)の大日本国憲法の発布に伴う大赦があり、西郷の逆賊の汚名は解かれた。

 汚名消去は西郷の人柄を愛した明治帝の強い推しがあったからだ。実は、城山の戦いで大久保が最後に西郷の逃亡を考慮したのも、昔からの友というだけでなく、明治帝から「西郷の命を助けよ」との強い要請があったからだと言われている。

 西郷は、明治初期の帝の青年期、行幸に同行した折に肝胆相照らす関係となった。帝を強く引き付けてしまうほど魅力ある男なのだ。

だから、今は日本に戻っても罪に問われることない。しかも、西郷を慕う人々は全国津々浦々に満ち満ちており、彼が戻って文明開化の旗振りをすれば、今の政府にとっても願ってもないことなのだ。

 「もし、西郷がロシア皇太子とともに、大手を振って日乃本に帰り、文明開化を宣伝すれば、われわれの攘夷決行は難しくなる。…ここは何としても西郷を葬らなくてはならない」

 津田は語気を強めた。

 「杉村さま、いや新選組の永倉さんにしてみても、旧敵の西郷が戻ってきて世間の表舞台に立つのは面白くないと存じます。いかがですか」

 「いや、今の儂はすでに隠居の身。今さら薩長憎しでもない。すでに遺恨はない。だから、西郷をどう思うかなどと問われても困る。貴公らの攘夷の志を打ち砕いてしまうつもりはないが…」

 二人の会話はここでしばらく途切れた。

 「いずれにしても、事実かどうかも分からぬ。しばらく様子を見ようではないか」

 沈黙の後、新八がこう切り出して、話は終わった。

 境内に子供たちが入ってきて無邪気な声で駆け回り、騒がしさが二人の会話の邪魔になったということもあった。(続く)

 上の写真は、西郷隆盛奄美大島に流された時に住まいとした旧居(大島郡龍郷町)と園内にある西郷の現地妻愛加那の碑文。