第四章 西郷隆盛がロシアから戻って来る?(続き)
永倉新八は、西本願寺前の宿屋に腰を据えて、新選組時代に知り合った人たちを再訪した。四条通り西の洛外にある壬生の八木源之丞宅は、新選組が設立された当初、屯所を置いていたところで、隊士は家族同様に八木家の人たちと付き合った。
北端を五条通りに接する西本願寺から大宮通りを北上すれば、すぐに四条通りだ。そこを西に向かうと壬生で、寺から十丁(約千百メートル)もない近さだ。
新八が久しぶりに訪れると、源之丞は八十歳近い老境にあったが、いまだ健在で、新八の再訪を喜んだ。
「ほうほう、永倉さん。よくぞ生きておったね。それにお元気そうで、何よりだ」
「源之丞さんこそ。安心しました。…明治の代になったあとも生き残って、訪ねてくる元隊士がおりましょう?」
出された番茶を飲みながら、新八が問うと、
「おります。おります。京にいる島田魁さんはもちろんのこと、近藤芳助さんも来ましたし、隊長格では、斎藤一さんも来ました。伊東甲子太郎さんのところの鈴木三樹三郎さん、篠原泰之進さんも」
源之丞の口からはすらすらと昔の隊員の名が出てきた。
「ほう、斎藤君がね。近藤芳助君も来ましたか」
明治になって、新選組元斎藤一が生存していることは新八も知っていた。新選組時代に、沖田総司と斎藤一は新八とともに副長助勤や組長として一隊を率いるとともに、その剣の強さを認められ、一緒に剣術師範も務めた。
新選組が上総・流山で崩壊したあと、斎藤一は会津藩に走って、会津若松城の防衛戦にも加わった。新選組が会津藩お預かりの存在であったことにこだわったのだ。
若松城落城後は、多くの藩士とともに配流先である下北半島の斗南藩まで同行し、元会津藩士の娘を妻に迎えた。
明治になって警視庁に出仕し、西南戦争では政府軍の一員として、抜刀隊を率いて西郷軍と戦った。幕末は「朝敵」であったが、九州の戦さでは「朝廷側」の人間として、かつては朝廷側だった薩摩軍と戦った。皮肉なめぐり合わせである。
斎藤一の名は新選組崩壊とともに捨て、本名の山口二郎に戻り、さらに警視庁出仕の折に藤田五郎と改名していった。その後は、東京の高等師範で剣術を教えていた。
新選組時代に多くの決闘や喧嘩、謀殺に関与していただけに、維新後を生きるに当たり、血なまぐさい斎藤一の名前ではまずいとの判断があったのだろう。
斎藤の剣術流派は一刀流と言われるが、きちんとした道場で学んだ剣技ではない。左利きであったため、戦いに出る時には刀を良く右腰に差していた。左手の方が自在であり、居合いの刀を抜きやすかったのだ。
その居合いの技は実戦慣れしてすさまじかった。これだけ見ても異能な剣士。隊内でもその強さを疑う者はいなかった。
斎藤は新八とともに近藤勇の試衛館の食客だったが、文久三年、家茂将軍を守るため、大勢で京に向かった幕府徴募の浪士隊には加わらなかった。何か不都合があって江戸を離れ、一足先に上方に向かったという話だ。
江戸で不祥事を起こしたからという説もあるが、真偽は分からない。
近藤勇ら試衛館、天然理心流一派とは剣術流派が違うという点で、斎藤も永倉も異端者。だから芹沢鴨や伊東甲子太郎らとの仲は悪くなかった。
二人は新選組内の小隊長幹部として酒席を共にする機会も多かった。だが、新八は斎藤に心を許すほどに親しみを感じていたわけではない。斎藤には、時局を語れる学がなかったし、斎藤の目には一種の殺人を楽しむ、人斬りの狂気が宿っていると新八には感じられたからだ。
新八にとっては、むしろ、近藤芳助の方が懐かしい。幕末の政府軍との戦いの中で、一時行動を共にしたことがあった。
近藤芳助は、元治元年(一八六四年)の池田屋事件のあと、近藤勇が隊士の新規徴募のため江戸に下向した時に、加わった隊士だ。この時、伊東甲子太郎の一派も加盟したが、芳助は伊東派ではない。
近藤芳助は、江戸・市ガ谷の生まれで、近くの試衛館道場に通っていた。近藤という姓であっても天然理心流宗家と関りはなく、近藤勇局長の姻戚でもないが、試衛館にいたので近藤勇の主流派であることには違いない。
芳助は、鳥羽伏見の戦いを生き延び、江戸に戻り、甲陽鎮撫隊にも参加する。だが、甲州戦で敗北したあと、近藤勇の新選組を離れ、会津に赴いた。
会津では城方に詰め、旧新選組を集めた斎藤一とともに政府軍と戦った。母成峠の敗戦で城に戻れなくなり、仕方なく米沢に向かった。その道中に偶然、芳賀宜道と一緒にいた永倉新八と出くわし、しばらく行動を共にした。
米沢で、芳助はあくまで北への転戦を主張するが、新八らは江戸に戻ることに固執。意見が割れて別行動となった。
ところが、芳助は更なる戦いを望みながらも、土方歳三のようにうまく仙台で榎本武揚の船に乗り、函館に行くことはできなかった。仙台に向かう途中、政府軍に捕らえられてしまったのだ。
捕虜になった芳助は、政府軍の尋問に普通の幕臣川村三郎と名乗り、元新選組隊士とは最後まで言わなかった。実際にいた川村三郎の人となりや生い立ちを知っており、その身代わりになりやすかったのだ。
芳助は最後に幹部級の伍長まで務めたが、それほど顔が知られていないのが幸いした。新選組にいたとなれば、京時代の行動がいちいち吟味され、場合によっては死罪になることもある。普通の幕臣で通したため、一年ほどで釈放された。
その後は、川村三郎の名で横浜に移り、市会議員、県会議員などを務め、地元の名士になった。大正十一年(一九二二年)まで生を全うしているので、新選組の生き残りの中でも最長命組の一人だ。
源之丞は、生存隊士が訪ねてきた時の様子を詳しく新八に語った。
「それで、永倉さんは今、何をされているのです?」
源之丞は番茶を飲みながら、聞いてきた。
彼にしてみれば、毎日命のやり取りをしてきた男たちが、御一新のあとに二十年も生き延びたことは奇跡としか思えない。だから、その後どう生きてきたのかは大いに興味があるところだった。
新八は、江戸に戻ったあと旧藩松前藩に帰参し、そのあと偶然鈴木三樹三郎に会って命を狙われたので、結婚して姓を変え、蝦夷地に渡ったことなどを伝えた。
「某(それがし)は、剣術以外に生きるすべは持ちません。五年ほど前まで蝦夷地の監獄で看守相手に剣術を教えていましたが、今は江戸に引き揚げていて、小さな道場を持っています」
徳川の世にどっぷりつかり、文明開化など無縁の感がある源之丞にも分かるように、新八は「蝦夷地」とか「江戸」とかという昔の言葉に替えた。
「それでこちらに来て、島田魁さんには会われましたか」
「ええ、会いました。彼の世話で今、西本願寺の寺前の宿にいます」
「ほう、そうでしたか」
「実はね、源之丞さん。京でもう一人会いたい者がいるのです。いや、正確に言えば、いたのです」
「それは?」
「実の子供です。島原の芸妓に産ませた娘です。今回、その芸妓に縁ある人を訪ね、消息を聞きました。娘はすでに死んでいるという話なのです。墓も参ってきました」
「ほう」
源之丞は新八に子供がいたことは聞いていなかった。
「ですが、…」
新八はそう言ってしばらく言いよどんだ。
「ですが、何ですか」
「某は何か吹っ切れないのです。信じたくないのかも知れません」
新八は、乳母であった岡田貞子、そしてその娘たちを訪ねたことにちらっと触れたが、詳しい話はしなかった。
「さようでしたか。まだ、確認するまでではないと思いますので、心落としなきよう。…
あるいは、どこかで生存していて、自分の本当の父親が元新選組隊士の永倉新八であると知れば、元屯所だったこの家に尋ねて来るかも知れませんね。まあ、生きていることを信じて、気長に待つことです。こちらに何か手がかりがもたらされたら、すぐに連絡しますよ」
「かたじけない」
この時、近くの木で止まっていたウグイスが「ホーホケキョ」と鳴いた。その鳥が移動したために木々がそよそよと揺れ動いて、一瞬濡れ縁や、庭木のツツジの赤い蕾に陽光を投げかけた。
「のどかですね。隊にいたころは、ウグイスの声など気にも留めなかったけど。今ははっきりと聞こえる」
「そうでしょうね。毎日が張り詰めた状態のあの時では、なかなか風流は感じられないでしょうからね」
源之丞はキセルから煙草を取り出して、吸い出した。
「ところで、永倉さん。京にお越しなら、一度、上方各地の剣術道場を回られ、ご指導されたら、いかがかな。明治になってもう二十有余年、最近、また剣術が見直されてきたんですわ。新選組の永倉新八と言えば、京、大阪の古手の剣客ならだいだい御存知のはず。こちらに来た路銀の足しになるかも知れまへん」
「ほう、それは願ってもないこと。源之丞さんは、京、大阪でどなたか剣術道場にお知り合いの方はいらっしゃいますか」
「おりますとも」と源之丞は相槌を打って、知り合いだという二、三の道場の名を挙げた。
八木家はもともと壬生で古くからの郷士の家柄。当主である源之丞も剣術にまったく縁がないわけではない。
「かたじけない。大阪も久しぶりだ。体もなまったし、道場でひと汗かくのもいいのかも知れません」
それに、大阪に行くなら、ついでに先日知り合ったばかりの尾上小亀の舞台も見てみたい。小亀はどこか小常に似ている。それなら、彼女の舞台の芸を見たら、島原の宴席で踊っていた小常を偲べるのではないかという思いも新八にはあった。(第四章終わり)
上の写真は、大阪・くらしの今昔館の資料から。