つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

小説「散切り頭の新八独り旅」

第五章 津田三蔵の攘夷計画は固まった(続き)

 

 前田源之助は、堂島米取引での商いに一喜一憂しながらも、再び津田三蔵、大河内多聞と大阪で会った。時は五月四日、もう気候もだいぶ暖かくなっている。

場所は前回と同じ大阪北御堂近くの居酒屋「伯楽」であった。周りの客に話が聞こえないよう奥座敷を取った。

 「ロシア皇太子が今月十日に京都見物に来る。その時、琵琶湖も見る計画であるそうで、滋賀県警に奉職している身にとっては攘夷決行に願ってもない機会だ」

 津田が声を潜めて口火を切った。

 「恐らく、私も警備に駆り出されよう。その警備の隊列の中から飛び出して皇太子一行を襲う。先頭馬車には恐らく皇太子は乗っていまい。先頭は随行者だ、あるいはうわさになっている西郷隆盛かも知れぬ」

 「では、西郷を襲うだけで良いということですか」

 大河内が再度確認した。

 「然り。皇太子本人を傷つければ、国際問題になり、ロシアと戦争になってしまう恐れもある。今、我が国がロシアと戦争して勝てはしまい。われわれの攘夷は外国人の、とりわけ海外の使節の車列を襲うことで十分その志は伝わると思う。われわれは先頭馬車の者を襲えば十分だ」

 「分かった。ではわれわれは何をすれば良い」

 前田が煙草に火をつけて、聞いた。前田はそう言うものの、この時正直に言えば、近い将来の攘夷決行に前向きになれない。今年の夏米相場の行方を監獄の中でなく、娑婆の世界で見守りたいという思いがあったからだ。

 「最初に突入するのは私だ。前田氏と多聞は、警備している私のそばにいて、私の動きを見守って欲しい。万一、馬車に西郷らしき男がいて、私が討ち漏らし、男が馬車から逃げるようなことがあったら、追いかけて討ち取って欲しい」

 「相分かった」

 大河内は返事をしたものの、前田は「おう」と言って軽く頷く程度だった。

 「で、この計画は永倉新八どのに伝えるのか」

 前田の懸念はもっともだった。首領と仰ぐ人をどういう形で使うか。実行計画に加わって一緒に車列を襲い、神道無念流の剣を振るってもらうか、あるいは実行部隊には参加せず、のちに「自分が首領だった」と新聞などで訴えて、宣伝に努めてもらうか。

 「永倉どのを実行部隊に入っていただくのは無理がある。襲撃に元新選組幹部が加わり、万一先頭馬車に西郷が乗っていたとしたら、それは勤王、佐幕で争った幕末の再現になってしまう。あの御仁は、実行部隊には加わらず、後の宣伝に協賛してもらえれば、それでいいのではないか」

 「それで良かろう」

 前田と大河内は頷いて、盃を干した。(第五章終わり)

 

*第六章以下を書き直していますので、「散切り頭の新八独り旅」はしばらくの間、休載いたします。

 上の写真は、大阪・くらしの今昔館の展示物。街中の裏店長屋の風景。

和歌山のドンファン殺害事件は疑問点ばかり

 3年前に起きた和歌山県田辺市ドンファン事件が新展開し、結婚時55歳も年齢が離れていたという若妻が殺人の容疑で逮捕されました。小生もかつて事件記者の端くれだったので、こういう犯罪に興味があります。昔、ロス疑惑三浦和義事件、林真須美毒カレー事件というのがありましたし、その後、複数の結婚相手を殺した何件かの「後妻業」事件がありました。容疑者が絶対犯行を認めないであろう、こういうミステリアスな事件は興味津々で、被害者、容疑者の当事者には大変失礼ながら、好奇心が掻き立てられます。

 77歳で殺された被害者の野崎幸助さん。あの小柄で、見た目弱弱しそうな爺さんがドンファンだったとは恐れ入ります。彼は女性遍歴について本を書いており、「美女4000人に30億円を貢いだ」ことを暴露しているとか。テレビで見る限り、彼は嫌らしい目つきをした女たらしのイメージはまったくなく、むしろ好々爺の感じ。同性の小生が見ても、悪い感じは持ちません。でも、最初に疑問に思ったのは、あの虚弱体型で果たしてそんなに多くの女性を肉体的に満足させられたのかという点です。

 中学校卒ながら廃品回収業、酒類販売業、そして金融業、不動産業とさまざまなビジネスに手を広げ、大金持ちになったとか。集めた金をどう遣おうと本人の自由で、他人からとやかく言われる筋合いはない。女性につぎ込むのもある意味素晴らしい遣い道であるかも知れません。でも、女性遍歴などを記録(本)として残すべきでありません。本人の品性欠如を表すばかりか、関係した相手の女性に迷惑がかかってしまいます。これは男女交際のルール違反です。彼が書くべきはむしろ、都会でもないところの成り上がり者でも、こんな金持ちになれましたというサクセスストーリーだったでしょう。

 逮捕された須藤早貴とかいう若妻(25歳)は相当したたかですね。北海道の女が当時22歳で和歌山県南部の田辺などという田舎町に”稼ぎ(嫁入り)”に行くのですから、すごい。筋金入りの”後妻業者”と言えるでしょう。先見の明でビジネスを成功させた野崎さんが結婚時、この若妻のドロドロとした野望、ひょっとしたら寿命を縮められるかも知れないという”殺意”になぜ気付かなかったのか。それが最大の疑問です。あるいは、そんな狙いを承知していながらも、なおこの若妻に魅力を感じていたのか、それほど若妻の献身的なサービスがあったのか。

 でも、これまた不思議なのは、須藤容疑者が単独犯であるならば、なぜ結婚後1年も経たないうちに殺してしまおうと思ったのか。野崎さんが死亡したのは、実に結婚の3カ月後という。彼は77歳であれば、それほど余命があるわけない。であれば、少なくとも数年は待っても良かったのではなかったか。同じ和歌山県であった林真須美毒カレー事件では、犯行の”凶器”としてヒ素が使われました。この事件時、マスメディアでは、ヒ素は証拠が残らず、少量ずつ食物などに混入していけば相手を弱らせることができるというような特徴が紹介されていました。後妻業者には”絶好の教材”になったと思うのですが、須藤は若すぎてこの事件を知らなかったようです。

 殺しのブツが覚せい剤とはストレート過ぎます。この薬物は非社会勢力が扱うもので、警察側もそれなりに入手ルートをつかんでいるでしょう。若妻は野崎さんの身体に証拠が残らないよう注射でなく、経口で与えていたようですが、これも経験豊富なだれかの入れ知恵で、そういう組織が絡んでいることが分かります。田舎ですから野崎家の金持ちは有名で、誰もが承知しており、羨望し、そして狙っていた人もいたでしょう。であれば、大掛かりな組織的、計画的な奪取犯罪が起きるのは不思議でないような気がします。

 上の写真は、横浜みなとみらいショッピングモールで見かけた段ボールの芸術。

小説「散切り頭の新八独り旅」

第五章 津田三蔵の攘夷計画は固まった(続き)

 

 大阪・堂島米市場で五月初頭の一日、夏相場の商いが始まった。

 堂島の米取引所は、江戸時代、各藩の蔵屋敷が立ち並んでいた中之島の、堂島川を挟んだ対岸にある。

 昔は、西日本各地から中之島蔵屋敷に米が集荷され、現物が仲買人によって品質が検査され、値段が付けられていった。今も現物の正米商いの取引はあるが、主流は、帳合米商いという一種の先物取引である。江戸時代からすでに始まっていたが、明治に入って、こちらの方が多くなった。

 堂島米市場では、売り方と買い方が取引所の広場に集まり、帳合米商いは午前八時から、正米商いはそれより二時間遅れて午後十時から、水方と呼ばれる役人が拍子木を打つと、仲買が掛け声をかけ、取引が始まる。

 米百石を最小単位とする金融商品の米切手が、競り合う方式で買い方によって値段をつけられていく。米切手が約束する現物が実際に現れるのは十月。そのため、買い手は夏から秋の天候を見極めて買い値段を付けていかなければならない。米切手を安く買って、のちに天候悪化で不作となれば、現物は高く転売できるという仕組みだ。

 夏相場に出てくる米は山陰、北陸ものが多い。この地域の米は、山間の田畑で生育されるだけに天候に左右されやすい。その分だけ取引は面白味が出る。

 夏相場が初めて立ったその日、柏屋善兵衛、西門屋言右衛門、摂州屋稲垣仁蔵、前田源之助の前田一派、そして住吉喜三郎らの京都商人一派も取引所の中にいた。

 午前八時、「カーン、カーン」と乾いた拍子木の音が鳴った。

 「遣った(売った)。遣った」の声が場内に響き、そのあとに「北陸米一石当たり六円」の値段が叫ばれた。

 ただ、これに対し「取ろう(買おう)。取ろう」という買いの声がないので、活況は呈さない。場立ちはしばらく模様見しているようだ。

 今夏の天候は安定するのか、荒れ模様になるのか、多くの場立ち、また彼らに指示を与える相場師たちも判断がつきかねていたのだ。

 しばらくして、喜三郎の一派やその他の場立ちが買いに入った。今、取引所内を支配しているのは、今夏の天候が悪化するという情報で、多くの相場師は当初はそう見込んでいたからだ。売買値段は徐々に高騰し始めた。

 これを見た前田が突如手の平を相手に向け始めた。売りに出たのだ。

 「これで、京都の商人連中の頭を冷やさせてやる」

 前田のぎょろっとした目が一段と開いた。

 京都派だけでなく、多くの場立ちの動向を見たかった。前田はそれなりに名の売れた相場師だ。自分の動きに注目する者がいれば、買いの動きは収まるだろうと思った。

 前田派の売り一方に案の定、一部の者たちが動揺し、買いの動きを止めた。

 多くの相場師は、<天候悪化が言われている中、前田派が最初から売りに出ているのは、相当な根拠があるからだろう>と思い始めたようだ。

 一、二時間もすると、買いより売りの方が多くなり、取引値段は下がっていった。

 これに対し、喜三郎派も内心喜びながら、一時買いを止めた。動揺している様子を見せたかった。買い進めたかったが、売り方もその動きを止め、取引値段が再び上昇するのを嫌ったのだ。休み休み、躊躇している振りをしながら、北陸米の買いに入って行った。

 「きょうだけで千石以上は買えた。かなりの安値でこれだけ仕入れたら、秋には大金に化ける。これで、昨年の損は取り戻せるかもしれない」

 喜三郎は、京都の株仲間の商人たちとひそかに顔を見合わせて、ほくそ笑んだ。

 喜三郎は、大坂の商人たちに晴天情報を流したことを尾上小亀から直には聞いていない。しかし、前田派が尾上一座と懇意にしていることは事前に知っていたから、あるいは小亀が吹き込んだものではないかと確信した。

 となると、前田派はずっと買いには出てこまい。こちらの思うつぼだ。

 「取引所に出される北陸米はあとどのくらいになるかは分からないし、こちらの資金の都合もある。ここで手仕舞いするか、あるいは続けるか。仲間内でまた相談せねば」

いろいろ思案しているうちに、「カーン、カーン」と水方が打つ拍子木が大きな音を立てた。

 午後二時、拍子木の合図でその日の帳合米商いは引けた。圧倒的な売り相場になった。

 前田派は、大引けのあと、取引所近くの酒場で会合を持った。

 「いやー。ほんま驚いたわ。京都の商人どもは異常な買いに入ったのには」

 「なんや、根拠でもあるんやろか」

 言右衛門と善兵衛が不思議そうに振り返る。

 「今日だけで、地主方に支払う分を差し引いてこちらの手数料は二百円くらいにはなりそうだ。ただ、ほんまに天候はどうなるんやろうか。作況が悪化したら、米価は跳ね上がり、こちらは大儲けをし損なることになるんやなー」

 年長の善兵衛がため息交じりにつぶやいた。

 「けど、今は小亀の情報にかけるしかないな。逆に、天候が安定したら、それはそれでわれわれの売りの判断は正しかったことなる」

 もちろん、前田が率いる大阪の商人一派も、地主方から米を購入する際の資金を銀行から借り入れている。米切手を長く持っていて米の豊作、不作が分かった時点で勝負が決まる。不作なら、米価は上昇するから、米切手の価値は増す。

 逆に豊作では米価は下がり、場合によっては地主方から仕入れた時点より下がる場合もあり得る。そうなれば、米切手の価値は下がり、銀行から借りた資金の金利を含めて相場師は大きな損失を被ることになる。いずれにしても、現時点では損得は分からない。

 次の日も北陸米が取引され、前田派など大坂グループが売りに出て、京都派が買いに回った。この二日間で北陸米取引は手仕舞いした。

 上の写真は、大阪中心街を流れる堂島川の支流土佐堀川。上の方は対岸、下の方は右側が中之島で、昔は蔵屋敷があった。堂島米市場は堂島川の北岸にあったとのこと。

一代年寄廃止は白鵬狙いの措置に違いない

 明日月曜日、確か大相撲夏場所の番付が発表される見込みです。番付が出るということはあと2週間後に初日を迎えるわけです。大相撲ファンの小生としては期待感大ですが、今の日本人大関陣で期待が持てそうな人はゼロ。結局、白鵬が”ずる休み”する間、またまたモンゴル人の照ノ富士が勝ってしまいそうで、その意味では若干テンションが下がります。そろそろ千代の富士貴乃花のような強い日本人関取が出現しても良さそうに思いますが、残念ながら関脇以下でもそういう可能性ある人は見られません。

 それはともかく、大相撲本場所のインターバル中、「大相撲の継承発展を考える有識者会議」なる組織が”画期的な”提言を出しました。「一代年寄に存在意義が見いだせない」ので廃止してもいいのではないかということ。その理由は、もともとこの規定は協会の中になかったからだという。これまで大鵬北の湖千代の富士(付与に対し辞退)、貴乃花一代年寄の資格を得ているが、これは特別な扱いであり、本来あってはならないものというのが有識者会議の総意です。

 でも、この提言を素直に理解すると、これは明らかに白鵬を意識したものであることは間違いありません。彼は史上最多の44回も優勝しているので、本来なら前例の4人よりはるかに一代年寄の資格がありましょう。白鵬自身もこの資格に期待して今まで通常の年寄株を入手していなかったとのことで、今回の提言はまさに寝耳に水のショックだったと思います。で、有識者会議がなぜこんな提言をしたか、年寄と力士名が一緒は良くない、一代年寄の部屋はすでになく、廃止には今がチャンスなどといろいろ屁理屈を並べていますが、要は、白鵬にこの資格を与えたくないというのが本音だと思います。

 なぜそういうことになったのか。それはひとえに白鵬の人格が災いしたのだと思います。彼は確かに、運動能力抜群で体力もずば抜けていますし、顔、スタイルもいい。本来は多くのファンがいてもおかしくないのでしょうが、今一つ人気が出ない。それは多くの人が感じている、彼の唯我独尊的な土俵態度です。例えば、右ひじが悪いということでサポーターをしているのに、その右ひじを使って相手のあごにかちあげを食らわすこと。本来はあってはならないことです。それで、サポーターの中に鉄板でも入れているのではないかとの皮肉や悪評が出てきました。

 以前、嘉風との取組で一方的に押し出された際、行司は「ハッケヨイ」と発しているのに、本人は待ったをしたと主張。審判委員もその勝負判定を問題にしていないのに、彼は土俵下にとどまったまま、なかなか取組後の礼に応じませんでした。優勝後の土俵脇インタビューで、勝手に万歳三唱を観客に強要したこともありました。どうも、彼からは謙虚さが感じられません。自分は今、大相撲の第一人者なのだから何もしても良いという雰囲気すら伝わってきます。

 少なくとも日本の伝統スポーツである大相撲に外国から来て参加したのであれば、人一倍その伝統に合わせる謙虚さを示すのが道理だと思います。それがいやなら、自国のモンゴルに大相撲の組織を作り、彼の勝手の運営をすればよいのです。なぜ相撲取りがちょん髷を結うのか、なぜ土俵で手刀を切るのか、塩をまくのか。スポーツとだけとらえる外国人には理解不能でしょうが、それが大相撲なのです。礼に始まり礼に終わるということができない関取であれば、たとい横綱でもあっても、厳しい仕置きが必要でしょう。

 白鵬はすでに日本国籍を取り、引退後の将来は朝青龍日馬富士らと違って、相撲協会に残り、部屋持ち親方となりたいとの意思を示しているそうな。であれば、尚のこと、他の親方、相撲協会の方々と歩調を合わせていかなくてはなりません。自分は44回優勝の大横綱だったなどという態度をつゆ表すべきではありません。貴乃花一代年寄の親方となったあと、「儂は大横綱だった」という鼻持ちならない姿勢が見えました。そういう態度が他の親方から嫌われ、結局、居づらくなって協会から出ざるを得なくなったのです。

 「相撲取り、土俵を去れば(髷を切ったら)、ただのデブ」という川柳がありますが、相撲協会を辞めた貴乃花は今、どうしているのだろう。恵まれた仕事もなく、恐らく厳しい現実に直面しているのではないか。ちやほやされることに慣れた人間がそういう境遇になると相当ショックを受けますが、それが現実です。「辞めてみて、すぐに分かるよ、今の地位」ということでしょうか。

 上の写真は、先日、町田方面に散歩に行ったときに見つけた花。下の方は、昔、横浜・黄金町遊郭で有名だった通りに残る藤の花。

トリチウム問題でも相変わらず「お笑い韓国」

 一昨日、テレビのワイドショーを見ていたら、日本政府が福島第一原発から排出されたトリチウム含有水を海洋投棄するよう決めたことに、韓国側が怒って、ソウルの日本大使館前で抗議の「髪切り」活動を行ったとのニュースがありました。この国の一部の人は、関わる相手が日本と見ると毎度異常な反発行動に出ます。それは予想されることで別段驚きもしませんが、明確な根拠もない抗議行動は理解に苦しむし、それ以上にばかばかしさに呆れてしまいます。本当に「お笑い韓国」という言葉しかありません。

 女性が長い髪を切るのは勇気が要ることだと思いますが、日本大使館前で若い女性を含む何人かが椅子で横に並び、バリカンで髪の毛を切り、坊主になっていました。日本がトリチウム水を海洋投棄することに抗議するとのことです。本来、外国の施設周辺でこうした抗議行動をするのはウィーン条約違反。ですが、「慰安婦」なる少女像も大使館前や釜山の領事館前から撤去されていませんし、相変わらずやりたい放題でウィーン条約違反を続けています。

 トリチウム水の海洋投棄は現在、世界で普通に行われていることです。原発が通常運転してても排出されるので、現に日本に文句を言っている韓国の原発も同様。古里原発は年間45兆ベクレルのトリチウム水を海洋に出しています。中国の大亜湾原発は42兆ベクレル、英国のある原発などは390兆ベクレル、”原発先進国”のフランスでは1京3700兆ベクレルのトリチウムを出しています。それに比べて福島第一原発トリチウム水の放出水は計画段階ですが、年間22兆ベクレルでしかありません。

 トリチウムは水素の仲間ですから、酸素と結びつけば水になります。広い海に放出するのでしたら、それほど神経質にならなくてもいいどころか、無視してもいいくらいのことです。ですから、太平洋の対岸にある米国やカナダ、さらには原子力問題を扱う国連のIAEAも「問題なし」として投棄を認めています。自国はしているのに他国は批判できないというのが彼らの立場です。今回、髪を切り落とした韓国のエキセントリックなおねいちゃんたちは、世界はそんな状況にあること、自国も大量のトリチウムを日常的に放出していることを承知しているのでしょうか。

 日本の放出を問題視しているのは中国、韓国、台湾だけ。この3国(地域もか)は、どういうわけか、福島県はじめ周辺地域で産出した農作物や魚介類の輸入をいまだにストップしているのです。事故から10年も経ち、日本国内では十分安全性が証明されているのに、異常な拒否反応は理解不能。コロナ騒ぎ以前に大勢日本に来たこれら3国のインバウンド客は平気で日本の食材を食べていたでしょうに、なぜ自国には入れないのか、日本産が嫌なら日本旅行の時も自国から食料を持ってこいと言いたくなります。

 と見てくると、日本のトリチウム水放出に文句をつけるのは安全性の問題というより、政治的な理由、あるいは感情的な発露であるとしか思えません。文在寅大統領は、国際海洋裁判所への提訴も検討するとか言っているけど、これも日本嫌いの感情的発露でしょう。でも面白い、やるならやってみろだ。裁判の過程で自国の原発トリチウム排出量の方が多いことが暴露され、恥をかくのは自分の方だぞ。

 日本軍の慰安婦慰安婦というけど、韓国軍がベトナム戦争に参戦した時に現地ベトナム人女性をどれだけ慰安婦としてきたか。戦後にベトナムで韓国人の血を引いた子供が大量に生まれました。韓国人の女性ジャーナリストがこの事実を暴露しようとしたところ、同国の在郷軍人会が猛反発、さらにはマスメディアも封印してしまいました。日本批判をしている最中に自国の同じ恥をさらすのはまずいという判断なんでしょう。報道の自由がない中国でならあり得る話ですが、韓国も一応自由と民主主義を標榜している国なのに、随分自分勝手な対応です。ですから、日本もこんな勝手な国にいちいち関わることはないでしょう。

 上の写真は、東京・千鳥ヶ淵の花大根と北の丸公園熊笹。 

小説「散切り頭の新八独り旅」

第五章 津田三蔵の攘夷計画は固まった(続き)

 

 新八は牧田玄斎とともに、尾上亀之助に導かれ、道頓堀角座に向かい、尾上小亀が主役を務める「赤穂浪士をめぐる女たちの物語」を見た。新八らは、亀之助に楽屋から入るよう強く勧められたが、事前に楽屋には行かず、小亀には会わず、木戸銭を払って中に入った。

 赤穂浪士の劇は、赤穂浪士にかかわる女たちがどういういきさつで知り合い、どんな関係となり、分かれていくのかという話だが、その中でも有名な岡野金右衛門と大工の娘の愛と別れが主題となっている。

 大石内蔵助や旧赤穂藩の幹部たちは、討ち入る先の吉良上野介が住む本所松坂町屋敷の詳細な状況を知りたがった。そこで、江戸滞在組の一人元近習、岡野金右衛門に命じて何とか屋敷の絵図面を入手するよう求めた。

 吉良は刃傷事件後、江戸城外の鍜治橋から本所への移転を命じられ、新屋敷を普請したばかり。岡野は吉良屋敷の普請を手掛けた大工の家には絵図面があるだろうと考え、大工の家に小間物屋の恰好で出入りすることにした。

 大工にはお艶という娘がいる。岡野はその娘に目を着け、接近して篭絡し、「他家の旗本が近く家を普請するので、その参考にしたいと申しておるから」と言って、父親から絵図面を借りるようお願いする。

 大工の父親は「これは赤穂浪士に狙われている吉良殿の屋敷の絵図面。絶対まかりならぬ」と拒否する。だが、娘は英俊で目鼻立ちの整った岡野に徐々に惹かれていく。最初に策略のつもりで近づいた岡野も、娘の健気さに徐々に惚れていく。

 岡野は<こんな娘をだましていいのだろうか>と自らの感情の変化を感じながら、<でも、われわれには討ち入りという本望があるのだ>との思いとの間で悩む。しかし、最後は本望が上回って納得し、あくまで絵図面取りにまい進していく。

 お艶は岡野の素性を感じ、下心を知るが、でも、好きになってしまった以上、男の願いを叶えてあげたいと思い、父親の仕事部屋から絵図面を盗み、岡野に渡すのだった。

 実は、父親も岡野が商人でなく武家で、しかも赤穂藩に関係しているらしいとの素性をうすうす知っていた。かわいい娘に近づく男に父親は心底心配し、手下の者に探らせていたのだ。

 夜間、娘が絵図面を持ちだすのを父親は隣の部屋から襖の陰で見ていた。でも、かわいい娘の一途な思いに負けて、見逃すのだった。そればかりでなく、父親自身、岡野の男気にほれ込み、本願成就させてあげたいとの思いもあった。

 討ち入り成就のあと、高輪泉岳寺に戻る赤穂浪士の一行の中に岡野がいるのを艶と父親は目撃する。お艶は愛する男の本願成就を喜ぶと同時に、これがわれわれの分かれになると自覚し、複雑な感情に支配され、泣き崩れるのだった。舞台はそこで幕となる。

 新八はその最後の場面を見て、もらい泣きした。艶を演じている小亀の演技が素晴らしかったこともあったが、それ以上に自分の今の身の上に照らし合わせたからだ。

 赤穂浪士は本願成就したのに、自分は新選組隊員としての本願も、今回娘との再会を果たすという本望も遂げてはいない。そういう思いの涙だった。

 「玄斎殿。実はお艶を演じていたあの女子と知り合いでしてね。私の娘と幼いころ、一緒に育ったとのことなんです」

 新八は涙を流したことをごまかすように、隣の玄斎に話し掛けた。

 「ほう、そうですか。…美形ですね」

 玄斎は話の筋にはあまり関心がないようだった。それで新八も相手に会わせることにした。

 「確かに、私の娘もまだ生きていて、あれほど美形であれば、なんと嬉しいことか」

 中入りの幕間に、亀之助が酒と新香のつまみとおにぎりを客席にいる二人に持ってきた。

 「永倉殿。このあと楽屋に来ませんか。座長が永倉殿に何かお聞きしたいことがあると申してまして」

 それを聞いて新八は一瞬迷った。

 <座長は元熊本の武家尊攘派だったと聞く。であれば、過去の、幕末の因縁話になるに違いない。私の身内が新選組に斬られたなどという話はもう聞きたくない>

 座長が特別に会いたいと聞いて、新八は却って楽屋に向かう意思が萎えた。

 「玄斎殿。貴殿は座長に興味があるようですが、私は幕末に斬り合った過去にとらわれるのはもう嫌だ。新選組時代の話はしたくない。貴殿が楽屋に行かれるのは勝手ですが、私はお先に帰らせてもらいます」

 そして、新八は亀之助に向き直って断った。

 「小亀さんの芝居は堪能しており、満足しています。他用がありますので、芝居が終わり次第帰ります。座長と小亀さんには誼なにお伝えください」

 新八は<新選組時代の話はしたくない>という思いを亀之助には敢えて伝えなかった。

 新八は幕間におにぎりを食べたが、酒、肴は遠慮して、芝居が幕になったあと、牧田玄斎を残して先に引き揚げた。

 新八に他用などなかった。牧田道場の住み込み門弟用の一室を借りていて、そこに戻って行った。

 玄斎は芝居の打ち上げ後も、しばらく客席で酒、肴を楽しんでいた。そこに、座長の亀之丞と小亀がやってきた。

 「あれ、杉村殿はどうされましたか」

 「所要ありとのことで、一足先に帰りました」                                                            

 「いややわ。先日京都でお会いして楽しいひと時を過ごしたので、またお会いできるのを楽しみにしていたのに」

 小亀は実に残念そうだった。

 「何故に先に帰られたのか」

 「座長殿は、かつては武家で、勤王の志士であったとか。杉村殿は旧姓永倉新八と言って、新選組の幹部をされていた方ですから、今さら貴殿、勤王方と佐幕派との間で命をやり取りした話はしたくないとの様子でした」

 「そうでしたか。私もそんなことを話すつもりはなかった。でも確認したいことがあったのです」

 「ほう。それは何事?」

 「いや、それはここではやめましょう。永倉殿に直に話すまで」

 「そうですか。では、今度貴殿と永倉殿が会う機会を設けましょう」

 「それはかたじけない。ぜひ、お願い申し上げる」

 亀之丞は武家を相手にすると、やはり武家言葉が出てきた。(続く)

 上の写真は、大阪歴史博物館に展示されている資料。

親友の突然死は、喪失感が募るばかり

 今週半ば、30年来親しくしていた親友を亡くしました。病院に薬を取りに行って、その帰り駅頭でハートアタックに遭い、意識不明のまま5、6日経って彼岸に旅立ちました。まだ72歳の”若さ”で、この世にお別れを言うような年齢ではありません。大変残念です。彼とはもともとある勉強会で会い、つまらないダジャレを言う共通性があったことから仲良くなりました。彼はずっと勉強会(講演会組織)の幹事をしており、小生もサブ幹事としてそれを支援していた同志ですから、たまに酒を飲むし、その時々に電話で連絡を取り合っていました。

 前に愛犬が死んだときにこのブログで書いたのですが、愛犬の死は母親の死より喪失感があったと。というのは、母親は死ぬ10数年前から老人ホームに入っており、後年はたまに小生が会いに行くと母親は顔を思い出し笑顔にはなるけど、会話にはならず、寂しい思いをしていました。それに比べて愛犬は家にずっといて、家に帰れば我が方に寄ってきます。母親と犬とを比較するのは恐れ多いことですが、どちらに愛着があって、亡くなった時に喪失感があったかと言えば一目瞭然です。

 ということで、たまにとはいえ、かなりの頻度で電話していた友人の突然の死はショックであったし、喪失感たるやすごいものがあります。何か相談事があると連絡していましたが、その都度彼は面倒臭さを感じさせず、応じてくれました。だから、今後は相談する相手がいないので寂しさ、悲しさが募ります。悲しさの本質というのは喪失感なんでしょうね。これは作家、城山三郎が妻を亡くした後、何か用事を言いつけようとして周りを見ると、妻がいない。それで「そうか、もう君はいないのか」というエッセイを書いています。存在が大きかった故の喪失感は分かります。

 病院に通っていたのですから、本人は生に対してまだまだ執着があったと思います。小生は6年前に胃癌を患い胃を切除しましたが、彼はその前に舌癌を患い、舌を削っていたようです。小生が退院した後に「やっと追いついたよ」と言ったら、笑っていました。第一期生の気象予報士であり、しかもかつてはテレビの天気予報コーナーでもしゃべっていたそうですから、講演の口もよくかかったようです。舌を削ったことでしゃべりが悪くなるとまずいとばかりに、日ごろから好きな落語の言葉や回文を繰り返していました。そのため、舌癌の人が術後に起きるようなしゃべりの悪さはありませんでした。

 小生と同じくダジャレの好きな人でしたから、酒を呑むたびにシャレを言ってました。ただ、同じネタの繰り返しが多かったです。だから、小生は「Tさん、その話はもう100回聞いたよ」と嫌味を言うのですが、彼はまったく動じずに、「一回も聞いたことがない人がいたら、それでいい」とばかりに繰り返すのです。彼の冗談話の一つに、病院に入院中に毎日のように同じダジャレを看護師に話すので、看護師が呆れて「Tさん、もういい、早く退院して」と嘆いたらしいのです。けど、彼はそれすらも自慢話のネタにしていました。

 彼が主幹事であった勉強会は、このコロナのご時世ですから、1年以上前から休止状態になっています。でも、コロナ明けには何らかの後始末が必要でしょう。つまり、だれかが代わりの幹事となって続けるか、それともこれで幕とするか。小生は彼の器量には及びませんので、代わりを努めるのは無理。やはりこれも悲しいことですが、幕引きを図るしかなさそうです。それはそれでまたまた喪失感が出てきそうです。

 上の写真は、一カ月くらい前のもの。横浜の小生自宅付近の大岡川端で満開に咲く川津桜と、ソメイヨシノが川に散った後水面に浮かぶ花弁。突然死した友人も桜が好きで、毎年、市谷の土手で勉強会花見の宴を開くのを楽しみにしていました。