つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

相撲国際化の矛盾を考えるべきだ

 とうとう朝青龍が辞めました。当然と言えば、当然のことでしょうね。前にも書きましたが、日本人から見れば、伝統があってはじめてその上に存在するスポーツという認識ですが、モンゴル人にとっては、少なくとも朝青龍にとっては相撲は単に多くある格闘技の一つにすぎなかったのでしょう。そういう認識のずれが今回のような事態、まあ相撲界にとっては”悲劇”を生んだ原因だと小生は思います。
 たとえば、プロレスラー同士であったなら、街中でストリートファイトすることはよくあることで、その争いがその後の興業には「…の遺恨」などという形で評判を呼び、むしろプラスになることがあります。真剣勝負の格闘技ですら、亀田3兄弟ではないですが、対戦相手を極端に挑発するような行動を取ることが許され、それが本番に向けての盛り上げを図る作用を果たしています。オリンピックの柔道で金メダルを取ったときにも、ガッツポーズはありました。
 そういう観点に立てば、土俵上で勝っても感情を表してはならない、ましてやガッツポーズなど何事かという方がむしろ異常なのでしょう。小生自身は、スポーツであって勝者、敗者を決めるゲームであれば、勝者が喜びを表すのは自然であり、ガッツポーズだっておかしくないと思っていました。ただ、多くの人が、相撲界の伝統ということでそれを否定するのであるなら、それはそれで致し方ないことでしょう。
 ですから、伝統に裏打ちされた大相撲は日本人だけにして、そのほかに伝統に縛られない純粋にスポーツ化した国際相撲大会を設けるべきです。どう考えても、ブルガリア人やエストニア人に着物を着せたり、ましてや化粧回しをつけさせたりするのは滑稽です。将来、この2人のヨーロッパ人は近々に横綱になる可能性が高く、そうなると明治神宮で奉納土俵入りをしなければなりません。キリスト教徒に神道の儀式を強いるのもおかしいし、もともと金髪に近い2人に白い綱は似合わないし、そばに日本刀(太刀持ち)があるなんて想像するだけでも、小生は噴き出してしまいます。
 その昔、戦闘竜という関取は父親がアフリカ系米人、母親が日本人という半黒人だったのですが、やはり日本的な感覚からすると、違和感がありました。そのうち、もっと純粋の黒人が入ってきたら、どうしますか。これは決して人種差別でなく、日本的な伝統美を異人種に押しつけるおかしさを言っているだけです。相撲の国際化というのは大いなる矛盾を孕んでいることをもっと相撲協会は認識してほしいのです。
 下の写真は、京成線柴又駅前の寅さん像。渥美清にあまり似ていないのもご愛嬌。