つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

密約の有無より安全をどう図るかだ

 今、岡田外相は、自民党時代にあった日米の密約とやらの追及に熱心で、北岡伸一東大教授らの有識者委員会に調査を依頼しました。このほどその有識者委員会よる調査結果が出ましたが、その内容は、「広い意味で密約はあった」とするものの、「密約そのものでなく、当時の政治状況などを勘案して論じなければならない」として玉虫色の形でした。さすが、国際政治の専門家である北岡氏らしい報告内容ではないかと思いました。
 それでも、岡田外相は「密約があった、あった」と鬼の首を取るみたいな感じで、自民党政権時代の悪しきものとしてを厳しく批判していました。民主党政権はやはり、国際政治がまるで分かっていないし、どうもこんな政党に政権を任せていると、国の行く末を危うくすると思えてならないのです。今、民主党政権に強く言いたい、要は密約があったか、なかったかではなく、国の安全保障を図る上で、どの形が最善だったのか、それを受けて自民党政権がどう決定してきたかという検証が大事なのだということを。
 鳩山首相も岡田外相も、このあと非核三原則は見直す考えはないとのたまわったそうだが、実にナンセンスな発言だと思います。三原則のうち「持ち込ませず」が実質、空洞化していると言うならば、改めて「持ち込ませず」を放棄して、「作らず」「保持せず」の二原則だけに限定しては。なぜなら、日本は「米国の核の傘で守られる」という拡大抑止戦略を取っている以上、「持ち込ませず」という足かせを付けるのは大いなる矛盾であり、米側に持ち込ませないという約束を強いるのも難しいと思うからです。
 もう、ばかばかしい矛盾に満ちた三原則などに拘泥されず、「日本は米国の核抑止力に頼っていますので、どうか貴国が必要と判断されたときに、随意に核を日本に持ち込んでください」と言うべきでしょう。もし、米国にそこまで卑屈になるのはいやだと言うならば、日本が自力で相応の防衛力を持つか、独自に核開発するかのどちらかしかないと思うのです。中国や北朝鮮の核や弾道ミサイルの標的が日本に向いている脅威を前に、虚しい軍縮論を振りかざすのは日本をさらに危険な状態に置くだけでしょう。
 「平和が壊れるのは、国家間の軍事的バランスが失われたとき」と、古今の軍事専門家、国際政治学の大家が言っていますが、この言葉を今一度、かみしめる必要があります。「平和」「平和」と唱えていれば、平和が保てるものではないのです。ましてや、平和を主張する者が武器を持っていいのかなどというばかばかしい理論にも付き合えません。そういう輩は、まず治安を守る警官がなぜ銃を持っているかという”疑問”に答えてから、主張してください。
 下の写真も、銀座で開催された友人の展覧会での出展作品。