つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

新鮮だった松岡洋右の生き方

 2017年が明けました。12時を回って真夜中、内人、愛犬と一緒に家の前にある成田山横浜別院、伊勢山皇大神宮と続けて寺と神社の”初詣はしご”をしました。元旦朝は雲一つ風もない晴天で、素晴らしい一年を予兆させます。年が明ければ、限りなく歳を取っていくだけですが、この天気を見て小生は、病を克服した以上、まだまだ元気に頑張ろうと気持ちを新たにしました。
 ところで、昨年年末は、大好きな時代小説読みを小休止し、これまた好きな幕末以降の著名人の伝記書を手に取りました。戦前の外相であった松岡洋右の生涯を描いた「夕陽と怒濤」という本で、元読売新聞の記者で作家の三好徹が書いたものです。三好氏が描く松岡洋右がこの本の通りであるなら、小生も松岡の印象を100%変えなくてはなりません。それほど衝撃的な本でした。
 松岡洋右が歴史の中で登場する有名な場面は、国際連盟脱退の場です。彼はここで満州国成立の正当性を主張し、リットン調査団の調査報告に基づく連盟の勧告を拒否し、最後に「連盟よ、さらば」と言って議場を後にしました。国策会社満州鉄道の総裁も務めていますから、一般に彼には強硬な軍国主義者というイメージが付きまとっています。
 だが、三好氏によれば、彼は、若くしてアメリカに留学(というより苦学)しているのでほとんど米国人並みの英語が話せ、しかも米国の民主主義的、合理主義的な考えを持っていました。外務省の役人として、ずっと軍が統帥権を盾に進める”外交”を苦々しく思っており、それが故に途中で外務省を辞め、政治家に転じています。彼には、軍事優先の思考はないというのです。
 松岡は全権代表でジュネーブに行く前は最後まで国際連盟脱退に反対だったとのこと。連盟を離れれば、日本は世界の孤児になり、必ず世界戦争の引き金を引くことになると予想していたためでしょう。しかし、連盟脱退を強く進言していた日本のマスメディア(これが一番悪い)や軍の意向に逆らえず、最後はあういうポジションを取らざるをえなかったというのです。
 そうした松岡個人の気持ちを裏付けるように、このジュネーブの会議のあと、彼は米国にも回り、ルーズベルト大統領に会見し、真意を説明しています。また、対米戦争直前は外相の立場にあって、最悪の事態に至らないよう近衛−ルーズベルト会談の設営など巧妙な画策もしていたというのです。ただ、すでに対日戦争を内々に決めていた米国の方針を変えることはできず、松岡の思いは空回りしてしまいました。
 三好氏によれば、松岡洋右を歴史上悪人たらしめているのは、戦後GHQに捕縛される前に自殺した近衛文麿の遺稿があったためで、これによれば、対米戦争を起こした諸悪の根源は松岡にあるように書かれていたそうです。ただ、近衛は首相時代に松岡を高く評価しており、1940年に外相に抜擢したようにその才能を利用していました。
 なぜ遺稿で松岡を非難するのかが分かりません。要は、自分の責任逃れかも知れません。武士はすべての責任を負って腹を切る。近衛は貴族で武士ではありませんが、人間、他人に責任転嫁すること、晩節を汚すようなことは避けなければなりません。

 上の写真は、スリランカ南部にある日系ホテル「品川ホテル」のベランダから海岸線を見た風景。一緒に写っているのは、スリランカのビジネス会社スタッフ。