つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

「西郷どん」泣かせた、「情」は人の心を打つ

 いやー、きょうのNHK大河ドラマ西郷どん」は良かった。泣かせました。征韓論争のあとの西郷隆盛大久保利通の別れの場面でしたが、2人の会話を聞いているとしみじみ西郷は「情の人」、大久保は「理の人」だと理解できました。必ずしも情が良くて理が悪いわけではなく、その反対でもありません。どちらがなくてもならないと思いますが、でもやはり「情」は人の心を打ちます。
 西郷が今でも、鹿児島はじめ日本各地であれだけ人気があるのは、人に優しいのです。レイモンド・チャンドラーの小説「長いお別れ」の中に「男は強くなければ生きられない。優しくなければ生きる資格がない」という言葉がありますが、西郷は努めて優しくしたのではなく、心底親切で、優しい振る舞いを地でしていたのです。そして、他人に優しくしてもその見返りを求めない、驕らない。だから人に好かれるのでしょう。素晴らしい人間、生き方だと思います。
 でも、大久保の「理」も分かります。彼には理想とする国家の体制、それを作り出す権力の姿があったからこそ、目的のためには手段を選ばなかった。まさにマッキャベリズムを貫いたのです。きょうの「西郷どん」でも、当時、欧米に文明で後れを取っていて、それに早く追いつきたいという彼の強い思いが分かりました。単に権力を握ることだけが最終目的でなかったと理解したいです。
 「情」と「理」の話をすれば、人の「情」は基本的に周囲の人にしか分かりません。でもひとたびその情に接すれば、「この人のためなら死んでもいい」というパッションが生まれ、強い力で引き込まれていきます。「理」は理屈、理性的説得ですから、何か書いたものさえあれば、それはそれで賛同する人は出てきます。理は言葉だけでなく媒介物を通すこともあるので、広く人を引き付けられますが、ただ強いパッションは生まれません。
 毛沢東は「情」と「理」の関係について自署「実践論」の中で、「もともと感情が先行する。感情があって、その情を正当化するために理論が作リ上げられる」と指摘しています。つまり、地主を打倒しようと思ったら、地主がいかに小作人を搾取しているかを数字で解き明かし、搾取の構造を理論化するような。まさに毛の言う通り「情」がないと「理」にはならないのでしょうね。きょうの「西郷どん」で改めて「情」の素晴らしさを再認識しました。


 上の2枚の写真は、福島県会津若松市内の紅葉風景。上の方は土津神社境内、下の方は飯盛山のさざえ堂付近。