つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

元事務次官の”犯罪”、江戸時代なら正当な成敗

 元農水省事務次官のキャリアを持つ老人が息子の家庭内暴力に悩み、その挙句に殺害するという行為に及んだのは衝撃的でした。だが、その彼が手錠をはめられて警察から出てきた様子を見ていると、社会不安の種を自らの手で消し去ったのだというような、清清とした様子、ある意味物事をやり遂げたという達成感さえ伝わってきました。さすが官僚のトップにまでなった人の覚悟のすごさというか、そんなものが垣間見られたと言ったら、言い過ぎでしょうか。

 息子が44歳の中年の年齢まで仕事に就かず、家にいて家族に暴力を振るうという構図は、子供のいない小生にはまったく理解できません。子供は、反抗期の少年時代はともかく、一定の年齢に達したら、無条件に育ててくれた親に感謝し、尊敬心を持つものだと理解していますから。それなのに、子供がどうして親に暴力を振るえるのか、何が原因なのか。単なる家庭内の問題か、それとも社会的な要因があるのか。

 よく仲間うちで聞く話ですが、子供が、特に男子の場合、中高校の年齢に達した時に、父親が単身赴任などで自宅におらず、母親だけだと制御が効かず、勝手な振る舞いをし出すということがあるようです。今は40歳台のサラリーマンが単身赴任するのは当たり前な時代になっているのですから、実に社会的普遍性を持っています。

 熊沢英昭元事務次官が官僚としてどういう経歴をたどってきたかはつまびらかにしませんが、子供の少年期に離れて暮らしたことがあったのかも知れません。あるいは、そういう負い目で子供を甘やかしすぎたのかも知れません。という観点からすれば、父母にもこの子供の在り様に一定の責任があるのでしょう。

 今回の事件の伏線として、川崎市登戸で51歳のやはり引きこもり男が街中で通り魔的に通行人を殺傷する事件がありました。熊沢容疑者は、自分の息子が「隣の小学校の音がうるさい」と文句を言っていたことから、息子が同じことをしたら大変だと判断し、刺殺に至ったようです。自分たち夫婦への暴力だけなら、まだ我慢したかも知れません。でも、第3者に危害が及ぶ恐れがあったら、それを未然に防がなければと考えるのは家族としての責務でしょう。

 ですから、たとえそれが犯罪であっても、次なる事態への防止という意味では、熊沢氏の行動は理解できます。江戸時代であれば、他人さまの迷惑になる要因を早期に摘み取る、家族内のことは家長が決着する、成敗するということはむしろ称賛されるべきでありましょう。テレビの評論などでは、第3者に任せてもよかったのではないかなどと、もっともらしいことを言い方がされていました。

 でも、それは犯罪を認めることはできないという観点からの発言で、それしか言いようがないだけのこと。当事者にとってみれば、実際は他に選択はなかったのかも知れません。同情してあまりあります。熊沢元次官の”行動”が正当防衛的犯罪であることと酌量され、刑が軽減されるよう祈ります。

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 上の写真は、アンコールワットを背景にした日の出風景。