つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

安楽死、学生多数が賛成したのに驚いた

 安楽死という見出しでも、ディープインパクトの話ではありません。小生が受け持っている「国際関係論」の授業で、諸外国との法制度の違いを示すために、日本はまだだけど、大麻の使用や安楽死を合法化している国や地区もあるよという話をしました。安楽死については、スイスやオランダ、米国やオーストラリアの一部ですでに認めらています。そういう話をすると、学生は驚いた様子で、学期末の試験で「講師の授業で何が一番印象に残ったか」と聞くと、かなりの人が世界の他の国で安楽死が合法化されていることを挙げていました。

 日本では現在、入院患者が延命を拒否することはできるが、安楽死については患者の同意証明があっても、医者や看護師がその死に手を貸すことはできない、そうすると彼らは嘱託殺人や自殺ほう助の罪に問われるという点も、授業の中で説明しました。その上で、小生自身の意見として、意志ある人間の最後は自らその結末を決めてもいいのではないか、つまり個人の「死ぬ権利」を認めてもいいのではないかと思っていると話しました。

 その時の授業の最後に「国際関係論の本題にとは関係ないが、君たちの意見を聞きたい。出席表の裏に安楽死についてどう考えるのか。賛成か反対か、そしてその理由も書いてくれ」との”課題”を出しました。その結果、驚いたことに、他人による安楽死の手助けは認めてもいいのではないかという意見が多数を占めました。小生の意見に左右されたわけではないと思います。学生たちはこの課題について結構真剣に考え、個人の結論を出したのだと思います。だからこそ、学期末の授業印象報告の中でこの話題を第一に挙げていた人が多かったのです。

 3年前に他界した小生の母親が船橋の老人ホームに入っていて、たまに見舞いに行った時の話。ボケ加減の人や車イスの入所者は、一階の食堂兼集会室に集められており、車イス生活となった母親も晩年はそこにいました。個室に置いておくと目が行き届かないし、面倒だとの判断が管理者側にあったのでしょう。その食堂に行くと、ひたすら目をつぶり何もしていない人が多く、中には食事で介護者の手助けを受けている人もいました。そういう様子を見ていると、生きるって何だろう、特に晩年の寿命って何だろうとしみじみ考えさせられました。こういう晩年を送るなら、まだきちんとした判断ができる時期に、自分の末期を決めていいいのかなとも思ったりしました。

 楢山節考姥捨山は、ムラの適正生育人口を確保するため、ある程度の歳になると、強制的に排除される、つまり役に立たない老人は死ななければならないというムラの掟の話でした。こういう結末方法は問題外ですが、老齢者自らが末期を決めるというのは合理的と言えば合理的かも知れません。老人介護施設に入るのはもとより、それなりの老後の生活を送るには相当の金が必要です。もし自ら寿命を決めていれば、持っている金は年々計画的に使うことができるでしょう。

 いや、それだけでなく、老後は病気を患う、身体の自由が利かなくなるという状況に置かれますから、他人に(子供がいる人は子供に)迷惑を掛けることが多くなりましょう。老人の医療費増加は国家財政破たんの原因にもなります。迷惑をかけたくないという観点に立てば、老齢者の安楽死の選択はあり得るのかなと思うのです。ただ、そうは言うものの、期限を決めた死をそう簡単に受け入れることができるのか。安楽死に賛成などと今の時点では言いながらも、いざ自分がもっと年齢を重ね、差し迫った時に決断できるものなのか。

 自分が元気でいる間は恐らく末期を決めることなどできないでしょう。となると、ずっと先延ばしにして、そういう状況になった時(明らかに死期が近い時)に決めようと思いますが、あるいはその時すでにボケているかも知れません。子供のいる人は事前に決断を伝え、よろしく取り計らってくれるよう頼めるでしょう。が、子供のいない小生などはいかにその意思をいつ、だれに伝えるべきか迷ってしまいます。安楽死というのは、「総論」賛成であっても、「各論」になると結構難しい面があるのかも知れません。

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上の写真は、今年3月にカンボジアアンコールワットに行った時に写したワンショット。