つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

「やまゆり園」事件で思い出したこと

 神奈川県相模原市の「津々井やまゆり園」の身障者施設で起きた19人刺殺、26人重軽傷の事件はショックでした。一人がこんな大量殺人を犯したのは、戦前の津山事件以来のことでしょう。犯罪史に残る大事件かと思います。それにしても、犯人の大胆不敵な態度、それに「身障者は死んだほうがいい」などとナチス・ドイツばりの半ば確信犯的な主張には驚かされます。
 小生はこの事件に接して、すぐに思い出したのは高校生時代に読んだドストエフスキーの名作「罪と罰」でした。ちなみに、わが高校は1年生の夏休みに、学年共通で「罪と罰」と島崎藤村の「破戒」の2冊を読んで、その感想文を書くよう宿題を出してきたのです。つまり、無理やり読まされたわけですが、読んでよかったです。
 千葉生まれなので身近なことではないため、小生は恥ずかしながらそれまで「部落民」という存在を知らなかったので、「破戒」の方も印象的でした。「罪と罰」は、貧乏学生が金貸し老女を殺し、その殺人を合理化するというあまりにも有名なストーリですが、小生も月並みに無神論と信仰の対立、人間の命と社会的有用性という観点で考えさせられました。
 ユダヤ人虐殺のナチス・ドイツは第二次大戦末期、自国民でも不治の精神病者を不必要な存在として安楽死させることを決めました。これも、生きる価値のない、社会に無用な人間は抹殺せよという発想ですね。北杜夫の小説「夜と霧の隅で」はこの事実を題材に、医師たちがその命令に抵抗する話を描いていますが、小生はナチスのこの冷厳な精神病者抹殺指令が鮮烈な記憶として残っています。
 やまゆり園事件の犯人はまだ26歳と歳若い。前途洋々であるべき若者がなぜ人間の命と社会的有用性を関連付けるような狭隘な思考に至ったのか。一見合理的であるように見えるものの、その実、人間性を一切捨て去った「罪と罰」のラスコーリニコフ流の考えになぜとらわれてしまったのか。これも興味が尽きません。
 一般に人間の命と有用性の関連は、歳を取るごとに自分自身の問題として感じてくるものです。自分のようにあまり社会の役に立たない人間が今後あと何年生き続けるのか、そしてその必要があるのかという視点で。特に、職を離れ、社会的な貢献、存在から縁遠くなれば、年々その思いが募ってくるものでしょう。
 正直に吐露すれば、小生の場合、他人に対してもそう思うこともあります。母親のいる老人ホームに行った時です。多くの認知症者がいるし、介護ヘルパーの手助けを受けて食事をしている人もいます。こういう老人を見ると、人間の命って何なのかと考えてしまいます。植松聖のように殺したいとまではさすがに考えませんが、こうまでして人間って生きなければならないかという思いにはとらわれます。でも、合理性だけで割り切れないのがまた人の命なんですね。

上の写真は、鴨川シーワールドマンボウ