つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

母親なら、ポテトサラダは作るべきか

 今日朝、テレビのワイドショーを見ていたら、面白い話題をやっていました。小さな娘を連れた女性がスーパーで、お惣菜のポテトサラダを買おうとした時、高齢男性が近づいてきて、「母親なら、ポテトサラダくらい自分で作ったらどうだ」と小言を言ったとか。女性は立ちすくみ、返す言葉がなかったそうです。これについて、街中の女性は「ポテサラ作りがどんなに大変か、この老人は知ってるのか」「安易に言うな」と反発、実際にテレビでポテサラを作る過程を見せ、結構大変であることを紹介していました。

 小生、現在、内人が不在なので、買い物は自分でしており、今日、話題になったポテサラを買ってしまいました。自分じゃとても作れません。それはともかく、高齢男性の小言は、正直、「自粛警察」にも似たおせっかい、余計なお世話だと小生は思います。確かに、「母親の味を子供に教えるべきだ」との声には同調しないわけではないが、それは理想論に過ぎません。総論賛成、でも各論(具体論)では難しいよねってなってしまいます。

 小言老人は、ポテサラにいちゃもんを付けましたが、では、彼は、子供のためにどの料理まで母親が自らの手で作るべきだと言っているのか。彼は、その作る範囲をどうとらえているのか。カレーライス、ハンバーグ、オムレツ程度か、それともチーズフォンデュ、高級フランス料理、さらには糠漬けまで自分でやれと言っているのか。大昔でもあるまいに、何から何まで自分で作りなさいと言っているとしたら、酷な注文です。第一、全部できたら、それはもう立派なプロの料理人です。

 世の母親には、外で働いている人もいてさまざまです。一日の時間が24時間である限り、有効に使わなければなりません。勤労女性が家族のために食事を用意する時には、時間の効率的な利用を考えなければなりません。となると、食膳をすべて自前で整えるのは無理。敢えて母親の味というなら、メーンデッシュと、あと一品くらいで済まし、メーンデッシュでないポテトサラダは、スーパーでの購入で済ますことは致し方ないと思います。

 と、論じてきましたが、最後に一言。小生は、この高齢者の発言を100%否定する気にはなりません。多くは反発が先に立ってしまいますが、発言によっては、理にかなっていることもあり、他人の注意が自らを反省する機会にもなるからです。でも、重要なのはやはり言い方でしょうね。心理学で言うところのアサーティブ・コミュニケーションが必要です。「…作ったらどうだ」ではなく、「お嬢ちゃん、ポテサラ、おいしいよね。お母さんが作ってくれたら、もっと嬉しいかもね。お母さんの味が一番だからね」と子供に向かって優しい言い方をしたら、言われた女性もほんわかとして、「では今度作ってみようか」と思うかも知れません。

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 上の写真は、野毛の飲み屋の前に置いてあるカエルの夫婦。