つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

いじめは未来永劫なくならない、だから厳重対処を

 週末から週初めにかけて3日ほど琵琶湖周遊の旅をしてきました。この旅行中にテレビをつけると、大津の中学2年生いじめ事件が発生から10年経ったということで、全国ニュースでも父親のインタビューが出るなど大きく報じていました。たまたま旅行している地であったので関心を持たざるを得ません、小生、子供がいないので、これまでいじめ事件をそれほど辛らつにとらえていませんでした。ただ、外から見ていてしみじみ思うことは、いくら、誰が何を言っても、学校内のいじめは未来永劫なくならないということ。学校は社会の縮図であり、世の中に一定のワルが存在するように、学校にも存在します。それを前提にものを考えなくなくてはならないと思うのです。

 この大津事件を契機にして、いじめ防止対策推進法が成立したそうな。それはそれで災い転じて福とまではいかないまでも、結構なことだったと思います。ただ、この法律の内容を見ると、非常にお粗末。学校内で重大事件が発生した場合、第三者委員会を設置して調査し、その後に教職員やカウンセラーを組織していじめの個別事案に対処するなどと後手後手の対応となっています。また、非常にアバウトな内容で呆れてしまいます。問題は、学校内で重大事件となるかならないような事案が数多くあるということで、その辺の対処が必要なのです。

 いじめというのは陰湿なもので、普通人の眼に触れないところで始まります。ですから、発覚しにくく、基本的に”重大事件”にはならないのです。教師や他の生徒が認識した時には、もうすでに取り返しができないほどに重大化していることが多いと思います。で、小生は何が言いたいかと言うと、学校には一定の割合が他の不幸を喜ぶ、また他の迷惑になるような人物がいる、すべての生徒が善良な人間関係を構築できるわけではない、ということを前提に対応策を考えなくてはならないということです。

 大津の事件で自殺に追い込まれた生徒の父親は「二度と子供と同じ目に遭わないようなシステム作りをしてほしい」みたいなことを言っていました。その通りですが、そのシステムがお座なりである限り、いじめはなくなりません。いかにわれわれ善良な市民が世界平和を望んだところで、暴力や暴力的支配を好んだり、人を抑圧することに熱心なタリバンや、ミャンマーの軍事政権や、抑圧的な大国、独裁国が存在するのと一緒です。「学校内のいじめは止めよう」などと叫ぶのは、「世界がどうか平和になりますように」と太鼓をたたいて念仏を唱えるような虚しい叫びになってしまいます。

 でも、世界と学校とは違います。世界は独裁者の跳梁跋扈を許す、暴力が左右するアナーキーな社会ですが、学校は教職員や父母会、それが駄目なら警察もいる管理が可能な環境です。だから、必要なことは父母会が教職員と緊密な連絡を取り合う形にし、日常的にいじめの発生を監視すればいい。もし、少しでもいじめの話が入ったら、その本人から徹底的に事情聴取する。報復を恐れて話さないのでしたら、いじめられた生徒に即別クラスにするとか、あるいは別の学校に転校できるとかの選択もあることを告知するのです。それは公立学校であっても、学区制を無視して可能にすべきです。

 そして、いじめる側の子供に対しては処分を厳しくするべきでしょう。いじめに遭った子が明らかにけがしたり、自殺したりした場合、徹底的に事情聴取を進め、いじめに加わった該当者は名前公表、その者たちを一般生徒から切り離し、隔離クラスにしてもいい。これまでのケースを見ると、まだ分別も付かない子供のやったことだからとして、どうもいじめた側の生徒の”人権”が優先されるケースが見られます。いじめっ子は逆にここで痛い目に遭わせておかないと、いずれ社会に出ても同じことを繰り返す可能性があるので、痛い目に遭わせるべきです。

 大津の事件でも指摘されていましたが、学校の教師も事なかれ主義者が多いように見受けられます。確かに、大量の仕事を抱える教師にしたら、最初はあまり目に見えない形のいじめなどに関わり、”余計”な労力など使いたくないと思うでしょう。でも、世界情勢と同じように、小さな事件、小規模なスカーミッシュ(小競り合い)がやがて大きな事件を呼ぶことを自覚してほしい。教師一人ひとりの手を煩わせないためにも、学校内にいじめ専門の父母会・教職員会合同委員会を組織し、必要ならば専門カウンセラーを配置してもいいと思います。

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 上の写真は、琵琶湖北部・長浜の湖畔から見た落陽の風景。