つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

「痛みを知れば、他人に優しくなれる」

 昨日夜、NHKの番組を見ていたら、あるボクシングジムで練習している人たちに対し、「どういう理由でボクシングの練習を始めたのか」などについてルポしていました。この中で、おおよその人が語った開始の動機については、小生が想像できるものでしたが、その中で、小学生だか中学生だかの子供を連れて一緒に練習していた父親の発言だけは異色で、小生も「あっ」と驚きました。
 その父親は「なぜ子供にボクシングをさせるのか」の質問に、「ボクシングで殴られれば、殴られる痛みが分かる。人間は痛みが分かって初めて、人に優しくなれるから」と言うのです。ボクシングの練習にそこまで考えていたこと、そしてそのすばらしい人生教育の実践に対し、頭が下がりました。小生は子供がいないので経験がないのですが、父親が責任を持って子供を育てるというのはこういうことなのかと感心させられました。
 小生が小、中学校のころ、ささいなことでよく殴り合いのけんかをしていました。しかし、今はそれがないようです。理由は定かではありませんが、教師の体罰も禁止しているくらいですから、殴り合いのけんかは学校ではご法度なのでしょう。でも、殴り合いがない分、子供たちは敵愾心や不満を内在化させ、陰湿ないじめに向かうような気がします。
 けんかでは一方的に殴られ、一方的に殴るというはなく、当然、両当事者は殴られる痛みを知ることになります。むしろ殴りあった方が、その場で争いが決着し、わだかまりがなくなり、その人同士の関係もよくなるように思います。むしろ親しみが増すことさえあります。その点、いじめは精神的な痛みなので、他人が分からないところがあり、加害者側の意識も希薄であるので怖いのです。
 学校でけんかができないのであれば、殴られる痛みを知る方法はボクシングや空手などのスポーツに求める以外にありません。小生も空手をしていました。練習中相手の足の蹴りによってアバラ骨にひびが入ったことがあり、痛みを知っています。痛みを知れば、優しくなれるというのはその通りです。
 いや、むしろそういう格闘技の技術を身に着けていると、自らの強さを自覚することで、むやみに他人に暴力を振るえないという自制心が働くことになります。その自制心が優しさということになるのかも知れません。

 上の写真は、幕張メッセで行われた農業関係見本市の一風景。