つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

アフターコロナで密が恋しいが、ほどほどに

 東京・六本木にも似た韓国ソウルの繁華街、梨泰院(イッテウォン)の道路に、ハロウィーンで集まった人たちが将棋倒しか何かに巻き込まれ、153人が死亡するという事故が起きたのには驚きました。2001年に起きた明石市花火大会歩道橋事故のように多くても十人程度(明石事故では11人死亡、247人の負傷)なら考えられますが、150人を超える人が圧死などというのは想像がつきません。で、改めて現場の道路を撮影した動画を見ると、ものすごい人が緩やかな坂となった狭い道路に入り込み、ほとんど身動きもできない状態になっていました。

 これでしみじみ思うのは、集まった人たちはコロナ感染まだ冷めやらない時によくもこんな密集に入り込む”勇気”があったなということ。あれだけ密集していては、ハロウィーンの仮装をしていても、互いに見せ合ったり、パフォーマンスをしたりすることはできません。極端な話、トイレに行きたくなっても簡単に密集から出られないし、痴漢やスリに遭うかも知れません。よくよく考えれば、死者にムチ打つようで申し訳ないのですが、密集に敢えて入り込んだ人にも責任があるように思えてなりません。

 東京・渋谷でも数年前のハロウィーンで、駅前のスクランブル交差点やセンター街に仮装人が集まり、酒を飲んで一部の悪乗り族が暴れたこともありました。でも、スクランブル交差点はもとよりセンター街での圧死は考えられない。DJポリスというのか、警察車両が陣取って大声を張り上げ、人流を捌いているので、道路が埋め尽くされるほどの人込みにはならないと思いますから。まあ、この措置も明石事故を教訓にしていることでしょう。そういう日本の警察を見るにつけ、韓国の警察はいったい何をしていたのか、なぜあんな密集を放置していたのかと思わざるを得ません。

 体力を失いつつあるわれわれ老人からすると、一見、なぜあんな密集状態の中に人々が行きたがるのかは理解しにくいところがあります。でも冷静に分析すれば、まったく分からないわけでもない。コロナ感染を恐れてこの2,3年、われわれはソーシャルディタンスとか言われて個々の間にスペースを取るよう強いられてきました。密集に縁がなかったのです。でも、よくよく考えれば、密集がなければ、人間は興奮しないし、友情も生まれないし、男女の仲も近づかない。なんと寂しいことであったか。

 ナチスのアドルフ・ヒットラーはかつて、政治集会を開いたときに、特に彼の演説の後半では、警備の親衛隊に対して、聴衆を外側から徐々に押し包むようにして、密集化を図るよう指示していたそうです。人間は他人と接近し、他人の体に触れ、息遣いを感じることで興奮度合いを増していきます。そこで聴衆はヒットラーの熱のこもったアジテーションに酔いしれ、大声で「快哉」の雄たけびを上げてしまうのでしょう。いわゆる群集心理の利用というやつです。

 いつの時代も、人々はやはり人集まりの中での感情の高まりを求めています。そういう観点からすれば、今、密集化するのは仕方のないことかも知れません。ですが、密集が原因で死ぬなんていうのは実にばからしい。周囲を見て”ほどほどの密”状態でいることが必要でしょう。ほどほどの密とは、今、ここでトイレに行きたいと感じた時に、すぐに行けるかという発想での判断でよろしかろうと思います。

上の写真は、横浜・桜木町、野毛界隈で見た花屋、パン屋、呑み屋店先のハロウィーンかぼちゃ。