つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

死を恐れない宗教家を戦いの相手にできない

 大河ドラマファンとして今年の「どうする家康」を論じなければならないのですが、昨年の三谷幸喜さん脚本の「鎌倉殿の13人」が面白かったので、正直比べようがない。脚本の差もさることながら、主役の差もあるのかなとも思います。小栗旬が演じたが北条義時は、最初のうぶなころから徐々に狡猾になる変化が確かめられ、演技のうまさが光って素晴らしいと思いました。それに比べて、家康役の松本潤は演技、発声が一本調子でちょっと物足りない。どう見ても、戦国武将とは思えない感じです。

 その点、一向宗の上人・空誓役の市川右團次武田信玄役の阿部寛織田信長役の岡田准一がそれなりの重々しさを出し、何とか画面が引き締まっていますが、肝心の主役の家康やその側近武将の役者たちも含めてどうかなと思います。今後、どのようにストーリーが展開されていくのかは分かりませんが、史実通りで行くなら、家康は今後信長の数多くの合戦に参加するのですから、松本潤も泣き顔ばかりでなく、それなりにどっしりとした風格ある武将となって欲しいと思います。

 それはともかく、家康が一向宗門徒との戦争に入ったことを後悔したところが先週、出てきました。後年、信長が大坂一向宗と長期にわたって死屍累々たる戦争を起こしたことでも分かるように、宗教集団相手の戦争はそう簡単に終わるものではありません。なぜなら、宗教の熱烈な信者は死を恐れないし、現世の利益に固執もしないからです。死を恐れない者に妥協を求めることはできないのです。要は、最初から打ち倒せる対象にはなり得ないのですから、無闇に宗徒との戦いを起こしてはならないということでしょう。

 中東、特にイラクアフガニスタンなどではいまだに自爆テロという攻撃が行われています。自らが死を恐れないのであれば、多くを巻き添えにすることは容易です。まあ、キリスト教はそうですし、イスラム、仏教もそうなんでしょうが、「聖戦で死するものは天国で幸福になれる」という教えがあるようで、いわゆる「殉教」が美徳とされていますから。現世で物的に恵まれない者、人生の目的を見いだせない者、悩み多き者はどうしても宗教に入りやすい。あの世でのその実現、幸せを願ってのことでしょうが…。

 また、頭の良い人ほど形而上的なもの、観念的なものにはまりやすい傾向にあると言えましょう。小生みたいな頭も良くなく、現世欲に汲々としている凡人はきょう明日の食べ物、快楽ばかりを考えているので、宗教とか哲学とは縁遠い。毎朝起きて寝床で最初に考えることは、定期的に執筆しているアルバイト原稿を今日中にどこどこまで書いてしまおうとか、何時からWBCの試合、大相撲中継があるので、それまでに仕上げなくてはならないな、時代小説の次のエロの場面はこういう設定にしてはどうかーなどと非常に近視眼的で下卑た想いしかないのです。

 まあ、哲学的な思索を重ねないと死の境地に入れないわけではなく、今日夜の食べ物を求めながらくたばるのもまた一興かな。でも、小生は、定期刊行物、時代小説、当ブログも含めてまだまだ書かなくてはならない原稿が数多あり、パソコンから離れることができません。それはそれで生への執着につながるので、結構なことかも知れません。

 上の写真は、伊勢佐木町で見られる壁画。何の絵が分からない。