つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

靖国問題についての私見

 昨年末に書いた安倍首相の靖国神社参拝に関する小生のブログに対し、ぼんじ氏から、「戦犯が合祀されている点がずっと気になっている一人です。総理大臣としてではなく、個人での参拝が良いのではいつも思っています。」とのコメントをいただいたので、一応小生の見解を申し述べておきます。
 小生はかつて母校の東京外国語大学で「現代中国論」という講義を持っていたことがあるので、靖国神社についてその経緯を調べたことがあります。正直言って、靖国神社というのは非常に厄介な問題だと思っています。戦前は国家神道の中で天皇に忠誠を尽くして死んだ人間を祀るところとして靖国神社が造られ、軍部が管理していました。つまり、国の施設であったわけです。「靖国問題」という高橋哲哉氏の著書によれば、靖国信仰は「天皇その人にほかならないとされた国家を神とする宗教」とのこと。ですから、この時点では靖国神社天皇主権下の国の管理責任がありました。
 しかし、戦後、新憲法によって天皇主権はなくなり、国家の宗教たる神道もなくなり、靖国も一宗教法人となったのです。国の管理責任がなくなったのです。国家に忠誠を尽くし、死んだ人を祀る施設が一宗教法人ではまずいので、戦後何度か靖国神社を国の施設にするべく国家護持法案が提出されていますが、その都度、左翼の反対で廃案になってきました。そんなあいまいな形のまま1970年代にA級戦犯の合祀が行われました。これは、一宗教法人たる靖国神社当局の独断です。
 A級戦犯の合祀は当時の政権担当者の希望するところではなかったでしょう。しかし、その意に反して、靖国神社側はそれをしたのです(一説には厚生省が名簿提出したということも言われていますが、)。過去に国家に忠誠を尽くし、死んだ人を祀ってある準公的な施設なのに、国家の管理を離れて一宗教法人に委ねたことに原因があります。もし、日本が東京裁判史観を維持し、現同盟国である米国を含めてかつての連合国諸国に不信感を持たれないためには、やはり「戦争犯罪人」とされたA級戦犯の合祀はまずかったのでないかと小生は思います。
 本来なら、国家の形態が変わったのですから、政教分離の意味からも、一宗教法人が管理する靖国より、無宗教(日本が仏教国とするならば、仏教施設でもいい)の追悼施設を造るのが筋でしょう。ただ、過去に戦死し、祀られた人はそれはそれで靖国とは切り離せませんので、靖国の場はそのままにする必要があります。つまり、靖国の「神社」という形を止め、「靖国追悼施設」というような形で国が管理する方法に変えたらいいのではありませんか。もちろん、その時は問題となっているA級戦犯の合祀は避けなければなりません。
 小生は、決して東条英機氏がヒットラーと同一のものとは思いませんが、東京裁判認知をベースに戦後、日本が独立し、米国と同盟関係を作ってきた経緯を振り返れば、ここはやはりそうせざるを得ないと思うのです。靖国問題によって、戦後の日本の歴史認識が米国やアジア周辺国に疑義を持たれていいことはありません。A級戦犯がいないのであれば、天皇も首相も大手を振って参拝できるはずです。公的参拝とか、私的参拝とかの言い方はしょせん小手先の方便でしかないと思います。
 下の写真は、昨秋、湯河原に行ったときの一光景。喫茶店で頼んだウインナ・コーヒーの上、見事なパンダが描かれていました。