つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

「核兵器がなくなれば平和が来る」は危ない論理

 G7広島サミットは、グローバルサウスの有力国首脳とともに、ウクライナのゼレンスキー大統領も急遽対面で参加して一段と盛り上がった感じがして、岸田首相、日本にとっては結構なイベントだったと思います。ただ、この際、平和(原爆)資料館がしばしば登場し、広島現地の民や関係者が登場しましたが、いまだに紋切り型の反応しか出てこないのに驚きました。これは、恐らく当たり障りのないコメントを求めるテレビ局側がそう言わせているのでしょうが、「核兵器がなければ、平和が来る」というのは安全保障論を無視した極めて危ない言い方、発想なので、止めて欲しいと思います。

 広島の人が核兵器を嫌うのは、関係者に被爆者が多い現実からすれば、十分理解できます。でも、テレビのコメントに登場したある女子高校生が「核兵器がなくなって、平和になればいい」と話していました。理想論ぽいのですが、まったく論理性がない。ある意味危ない発想でもあるのです。いったい、誰がこんな発言の知恵を付けたのでしょうか。核兵器がなくたって戦争は起きるし、いや、通常兵器だけならばむしろ戦争はやりやすくなる。核兵器が双方に存在することで一定の抑止力が働くので、むしろ戦争は起きにくいのです。

 日本が軍事力を持つというのは戦争するためでなく、相手に戦争する気力を持たせない意味なのです。そうであれば、こちらがより強力な兵器を持つ方が相手を萎えさせる効果は大きい。軍事力が抑止力なんだ、抑止力によって平和が維持できるのだということをなぜ学校教育で教えられないのか。中でも核兵器が最大の抑止力効果を持つので、拡大抑止の考え方が必要です。単純に「武器を持つのは悪。平和を愛する人は武器を放棄すべきだ」「核兵器を持つのは最悪」などという非武装論、非核論は、確かに心が和む、気持ちいい発言ですが、極めて危ない考えです。

 卑近な例ですが、「私は平和主義者だから」と言って、若く可愛い女性が暗い夜の公園を独りで歩けるのか、「私は善人だから、他人の善性も信じる。襲う人などいない」と言って無防備で荒くれ男の中に入っていけますか。警察が一定の安全を保ってくれる日本の社会でもそうなんだから、まったくアナーキーな国際社会で非武装の国家が存在しうるわけがない。フィリピンのドゥテルテ前政権は中国の善性を信じたために、南シナ海の自国領土が危機にさらされ、奪われてしまいました。スリランカは借金のかたに南部のハンバントタ港の権益を中国に奪われました。

 軍事力を背景にした力の強さが一定国家の横暴な振る舞いの源泉なのです。米国もかつてそういうところがありました。でも自由と民主主義を守りたいという意識は持っていたと思います。米軍がかつて軍隊を派遣したところに、その後もずっと居座って自国の領土にしたというのは、少なくともここ数十年はありません。イラクサダム・フセイン政権を倒した後も、彼らの自由な選挙に委ねた。そのために、今のイラクの政権は親イラン、反米的なイランと親しい政権になっています。

 米国の派兵は単純に国益だけでなく、自由と民主主義というたいまつの火を掲げている。その辺は、独立国ウクライナの領土に侵攻し、その地の民を凌辱し、財産を奪い、挙げ句に核保有をちらつかせて自国の領土内に収めようとしているロシアとは雲泥の差。ロシアは独裁者の一言堂支配ですから、世論の制御が利かない。こういうとてつもなく乱暴で、非論理的な国家の軍事力使用には断固として世界が反発し、糾弾し、武力で対抗していかなければなりません。侵略者に一片のいい思いもさせてはならないのです。

 最後に、サミットの最中、広島で「戦争反対。サミット粉砕」というプラカードを掲げてデモをしていたグループがいました。この2つの言葉も意味不明。戦争は欧米が仕掛けているのではなく、ロシアがやっている。「戦争反対」と言うならば、ロシアに対して言うべきです。「サミット粉砕」というのは、ロシアの侵略を抑えるべく欧米、日本が協調することが嫌だということか。ロシアの侵略の現状をそのまま認めろということか。だとしたら、あのデモグループはロシアの回し者、侵略者の一味でしかありません。

 上の写真は、東京で飲んで帰ってきた時に、我が家近くの野毛の呑み屋街で遭遇したサンバのフェスティバル。”サンバ”は産院だけの存在でない。