つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

もし子供がいたら、「手に職を持て」と言ったはず

 世上、良く「死んだ子の歳を数えてもしょうがない」などという言い方がされます。子供を亡くした親にとっては「もし彼(あるいは彼女)が生きていたら、どうしていただろう。どういう生き方をしているだろう」とついつい考えてしまうのは自然で、しょうがないことです。かく言う小生は子供がいませんが、最近、内人と「もし、子供がいたら、どう育っているか、どう育って欲しいと思うか」などと話し合ってしまいます。これは死んだ子の歳でなく、生まれてもいない子の「歳」を数えることで、さらに意味のないことなのでしょうが……。

 我々夫婦は結婚してから今年6月で44年目。結婚してすぐに子宝に恵まれていたら、子供はすでに40歳を超している年齢です。それはともかく子供がいたら、どうなって欲しいか。つまり、生まれてもいない子の「歳」を数えています。小生は自由主義者なので、基本的に本人の意思を尊重する立場ですが、それでも最低限こうあって欲しいという希望はあります。それは、自立して生きていく、生活していく収入を得るため、何らかの”技術”を身に着けて欲しい。それが切なる願いです。何でもよいのですが、できれば希少価値、他を圧倒するほどに秀でた一芸、技術であればなおいい。

 音楽が好きなら、徹底的に一つの楽器をマスターして欲しい。楽器は人類共通で分かり合える技術なので、世界のどこにいっても飯が食えます。極端に言えば、街でストリートパフォーマンスをやっても、それなりに楽器がうまければ、世界のどの街でも「投げ銭」で食っていけます。スポーツが好きならば、何か一つの種目で他人に教えられるレベルにまでになって欲しい。日本独特の武道や世界的に競技人口が多いサッカーや野球であれば、外国に行っても教えられる。

 ”手の技術”といえば、手品師やゲームパフォーマー、ダンスなどもいいと思います。手品などは目で分かる芸、言葉が要らないのでグローバルに活躍しやすい。落語や漫談は国内では受けるけど、やはり海外に出ると言葉の壁があります。優秀な頭であれば、さまざまな資格があり、それを取ればそれなりに生活を保障してくれます。医師、建築士、法律家、弁理士、税理士はじめいろいろ専門職がありますが、小生の頭ミソからしてそんな資格が取れるような優秀な子供を持つことは期待できません。

 ですから、小生に子供がいたら、何でもいいから、反復練習、稽古、訓練によって身に付く手の職、技術を習得しろと言ったでしょうね。実は、大学で教えていた時にもそのようなことを再三、学生に話していました。どんな大学の卒業証書であってもそれが君らの未来を保障するものではない、法学部、文学部を出ました、経済学部で学びましたと言ったところで、それ自体はほとんど効能を持たない。やはりその学びの中で資格を取るか、あるいは趣味やクラブでやっているそれぞれのスポーツや芸術を磨き、飯が食えるレベルに達することが必要だと。

 小生は外国語大学という出身大学のお陰で細々と中国語などを教えてきましたが、若いときにもっと勉強していろいろな資格に挑戦し、獲得していたら良かったかな、別の人生を歩めたかなとも思ったりしています。小柳ルミ子の歌じゃないですが、今さらジローの感がありますが……。ですから、70歳過ぎになってこんなことを書くのは、自身の反省の意味でもあります。

 上の写真は、横浜・野毛の寄席「にぎわい座」の4月ある日のメニュー。立川志の輔の独演会でした。落語は日本国内では十分飯が食える芸です。桂小すみさんの音曲も素晴らしかった。これは世界で通用する金の取れる芸です。下の方は、みなとみらい地区の桟橋に係留されている屋形船。船の船頭もそれなりの資格であり技術。