つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

戦争も一定地域での生存個体調整なのか

 深沢七郎の短編小説「楢山節考」は、長野県を舞台にした姨捨山伝説という民話をベースにしています。実話かどうかは分かりませんが、恐らく昔の貧しい農村ではそれに近い話はあったのかなと推察できます。作物が良く採れない寒村では、養うべき人間のキャパシティーは限られている。そこに新しく子供が生まれると、食べる作物がその分余計に必要になるので、もう労働力にならなくなった老人を雪山に連れて行って凍死させる、強制的に”口減らし”する風習です。現代では残酷に見えますが、江戸時代などでは、全員の餓死を防ぐという観点から自然なことだったのかも知れません。

 小生は小学校時代、母親に連れられて田中絹代主演の松竹映画「楢山節考」を見て、その内容が鮮烈な印象として残りました。その後、今村昌平監督、坂本スミ子主演で同名の映画がリメイクされ、カンヌ映画祭パルム・ドールを受賞しています。今村作品は、じめじめとした農村の人間関係、泥臭さを感じさせる内容であり、小生はいまいち馴染めず、やはり親子の情愛を強調した最初の木下恵介監督作品の方が好きです。

 それはともかく、今回取り上げたい話題は「楢山節考」の映画考でなく、その映画の内容。一定地域で生存数が限られている場合、余剰な生物個体は排除しなくてはならないのかという点です。役に立たなくなった人間は速やかにこの世から消し去るべきかどうかという点は、ドストエフスキーの「罪と罰」でもテーマになりました。この小説では、生存個体定数までには触れていませんが、役に立たない人間の存在理由、在り方を問うています。

 われわれ団塊の世代以上は社会に役に立たず、年金をもらって食いつないでいる人がほとんど。今の年金制度は積立方式でなく賦課方式なのですから、負担している勤労世代は心の中で、この負担を和らげるために団塊世代以上は早くこの世からいなくなって欲しいと思っていることでしょう。ある意味、姥捨山伝説での”口減らし”に近い発想です。われわれは本来強制的に姥捨山に連れていかれるところなのに、幸いなことに今、年金で養われています。ですから、最低限であろうと、現在の年金額で満足すべきで、文句は言えないのかも知れません。

 次にキャパシティーの問題。今、地球上の人口は80億人であり、この人数を地球の資源、食糧で収容し切れるのかとついつい考えてしまいます。人間の姥捨山だけでなく、他生物でもこうしたキャパシティーを本能的に知り、それに殉じる生物は多い。最近華文の国際ニュースで見たのですが、英国スコットランドのルイス島で7月17日、55頭という大量のクジラが陸地に打ち上げられ、自然死しました。周辺海域にえさがなくなったことで、一部のクジラが本能的に死を選んだのではないかと言われています。

 かつて、中国青海省青海湖付近でひつじが何十頭、湖面沖合に向かって整然と進み、”集団自殺”したというニュースを聞いたことがあります。付近に十分な食べ物がなくなったが故に死を選んだと見られ、これも本能的な生存個体調整なのでしょう。そういう意味では、戦争も一つの生存個体調整になり得ます。ウクライナ戦争のようなバカな戦争を起こすロシア人は、より本能的に事を起こして人口を減らそうとするバカな人種なのかも知れません。

 上の写真は、6月に行った京都府・天ノ橋立での風景。海上に突き出た中州の帯は、もっと狭いものと思っていたのですが、左右の幅が案外広いのに驚きました。