つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

カツラも化粧も経済発展のための一つの証

 ユーチューブをサーフィンしていたら、面白い漫画の動画にぶち当たりました。高校生徒と思しき女性が教室で先生に向かって「先生が(頭にカツラを)かぶっていることはみんな分かっているのに、どうしてかぶっているの?」と酷な質問をするのです。それに対し、先生は平然と対応、「君がブスであることはみんな承知している。それなのに、どうして君は化粧をしているのだ?」と反撃に出るのです。

 一見面白いやり取りですが、これを見て小生の印象は、こんなケースは現実にあり得ないだろうなと思いました。女子生徒にしろ、先生にしろあまりにも相手に対しデリカシーを欠く言葉を使っていますから、普通は面と向かっては言いにくい。漫画の世界だからあり得たやり取りでしょう。

 昔、中学校の英語の教科書に出ていた米国のヒューモア小話にこんなのがありました。ある紳士が間もなく外出するので召使いに対し「靴を磨いておいてくれないか」と求めると、召使いは「先生、外は雨です。意味ありません。磨いてもすぐに汚れてしまいます」と答えるのです。それに対し、紳士は「それなら、お前も食事をするのを止めたらどうか。食べてもすぐに腹を減らしてしまうのだから」と反論するのです。なかなか面白いやりとりなのでずっと頭に残っていました。

 これらのストーリーを見ると、明らかに無駄なこと、間もなくその成果を失ってしまうようなことはやる意味がないんじゃないかとの指摘のように思えます。ただ今、よくよく考えると、なんか人間、生の本質を突いている意味深長な内容を含んでいるように感じてなりません。人生なんて生まれて死ぬまでの膨大な”暇つぶし”という観点に立てば、やることなすこと無駄なことだらけじゃないのか。ほとんど無駄なことだけで世の中成り立っているのではないかと思うくらいです。

 食事は生きるための根源的な活動で、生きることを前提にすれば欠くことはできません。だが確かに、靴を磨くことも、カツラも、化粧も、確かに無駄なことと言ってしまえば、その通りです。美化したいとか、恰好を付けたいとかは、孔雀が羽を広げるように他の動物にもありますが、靴磨きとかカツラとか化粧というのは極端な美化で、人間以外はないように思います。そういう意味で、精神活動を持った人間の特性のように思えてなりません。こうした特性が、ある意味、経済発展のベースなんでしょうね。

 人間が生存していく(これ自体絶対的なものとも思えませんが…)ためには、原始時代でも分かるように自然界から食べ物を得、それを煮炊きするだけで良かった。ですが、時代を経て徐々に生活を複雑化していって経済活動を膨らませていったのです。そうした中で、本来生存本来と直接関係ないような美化とか恰好付けとか、あるいは楽しみとかという”余計な欲求”が出てきたのでしょう。だから逆説的に言えば、現代に生きるならカツラも化粧もあっていい、いや美容整形だって必要かも。

 美化もまた重要な経済活動の一つなのですから。それを否定し合っていたら、究極的に原始の時代に戻れと言っているに等しくなってしまいます。人生なんて生まれて死ぬまでの膨大な”暇つぶし”であるのならば、中でも楽しむことがメインとなるべきです。それだけを考えて、悩むことなど必要ない。どう生きたって一生。別段、歴史の教科書に載るほどの人間じゃないと思うなら、美化も恰好付けも捨てて、気楽に生きたら良いのではないでしょうか。

 上の写真は、ネットに出ていた男性歌唱グループの写真。韓国のグループか。最近、男性で赤い口紅を使っている男子が多い。小生は「男が口紅?気持ち悪い」と思うけど、これも時代の進歩、経済発展の一つの証かも知れません。