つれづれなるままに-日暮日記

現世の森羅万象を心に映りゆくままに書きつくる。

小説「散切り頭の新八独り旅」

第四章 西郷隆盛がロシアから戻って来る?

 

 この墓参りの後に、小亀は大阪に戻った。

 尾上亀之丞一座による京都北座の公演「赤穂浪士をめぐる女たちの物語」は大成功だった。小亀は赤穂浪士の一人、岡野金右衛門を慕う町屋の娘を演じ、女心の切なさをにじませた演技は評判を呼んだ。そして、その芸名も知られるようになった。

 小亀にとって京都が地元だから、本来なら、舞台がはねたら地元の旦那衆と一席、二席と酒席を持ち、贔屓筋になってもらわなくてはならないところだ。京都にもタニマチになってくれそうなお大尽が多い。

 だが、大阪公演がすぐに迫っていた。楽屋に花を届けたり、おひねりを持ってきたりする客人には「すぐに京都に戻りますので、その時にまた」と丁重に謝辞を述べ、酒席への招待は断わった。

 大阪にも大勢の小亀ファンがいる。公演の演目は京都と同じ「赤穂浪士をめぐる女たちの物語」で、大阪でも観客の入りは良かった。

 ただ、木戸札(入場券)は芝居小屋先だけでなく、多くを商家の買い取りに頼っていたので、小亀は毎夜、幕が下りたあとに、商家の旦那衆の酒席にも顔を出し、ご機嫌伺いをしなくてはならなかった。

 亀之丞一座が世話になっている一団に、北浜の相場師グループがいた。相場師はグループの中心にいて、指示を出して売り買いを決める元締めだが、実際に力を持ち、羽振りを利かしているのは、資金を提供している堂島などの古い商家の旦那衆だ。

 ある晩、小亀はその一団の酒席に侍ることになった。

 小亀の名と美形は大阪では京都よりははるかに知られているし、贔屓筋も多い。酒席に呼ばれれば、誰もが小亀に群がって酌を求める。

 この日、曽根崎新地の料亭では、堂島にある呉服商の大店「柏屋」の主人善兵衛、金物卸問屋「西門屋」の主人言右衛門が小亀の前に座った。二人の脇にいて話に加わったのが相場師の前田源之助だった。

 「きょう芝居見たで、いつ見ても、あでやかでんな、小亀はんは。まあ、一杯どうや」

 善兵衛が杯を差し出しながら、切り出した。

 「おおきに、でもなー、旦さん、私なー、まだまだ修業が足りてへんと座長に言われてますんや」

 「いや、十分や。岡野金右衛門を慕う生娘の演技、泣かせたぜー」

 「それは、それは、おおきに」

 しばらく舞台の話になったが、小亀が住吉喜三郎の話を思い出した。

 「ところで、前田はんは相場師さんでっしゃろ。儲かってますのんか。儲かってたら、私も小銭持ってますさかいに、儲け話、乗せてくれはらしません」

 小亀は前田に向かって微笑みながら酌をした。小亀は、津田三蔵の仲間である前田とも顔見知りで、以前にも旦那衆との飲み会で話をする機会はあった。

 「儲けなー?ぼちぼちですな。…でも、小亀さんも相場に関心があるとはなー」

 「当然ありますよ。米相場など何だか博打みたい。半年先の値段を推量して売った買ったとやるのはおもろいと思います」

 「相場を張るには、近い将来の天候や社会情勢を読み、それに合わせて売り買いする。大儲けするには当然、自らの予測が当たらなければならない」

 「その辺のことは知ってはります」

 「では聞くが、小亀さんは今夏の天候をどう予測する、米の出来具合いをどう読む?」

 小亀がこちらから振りたい話を前田が切り出してきたので、びっくりした。専門家でない役者相手だから、半分以上、真面目に聞いている風には見えない。座持ち話にすぎないが、これは喜三郎から言われた話を出すチャンスだと小亀は思った。

 「それがね、前田はん。先般、二、三カ月先の天気が読めるという予想屋さんと偶然知り合いになったの。面白いこと言うてはったわ」

 小亀は前田が関心を持つように思わせぶりに言い方をした。

 「ほう、それで何言うたん?」

 「私が聞いた話だし、そのお天気屋さんがいい加減かも知れへんので、話半分に聞いてくださいな。彼が言うには、今年大方の予報では、冷たい夏になって不作になると言われているが、実は例年通りの豊作になるという話。豊作で米の値段が下がるから、事前に先物を買い進めると損するぜという話でした。前田さんはどう思いはる?」

 「それもありかも。でもなー、小亀さん、そのお天気屋さん。どれほどの根拠を持っているのか、ということやね」

 前田でなく、傍で小亀の話を聞いていた善兵衛が口を挟んだ。

 日本の気象予報は一八八三年(明治十六年)から始まっている。東京気象台ができ、天気図なるものが書き出されたのが発端。天気は西から変化するということも知られていたので、西の天気を見て二、三日先の天気を予想した。でも、この予報はあくまで直近の天気を占うもので、二、三カ月後の天候を占うなどはとても無理な話だった。

 したがって、民間は、経験豊富な天気屋さんに頼る。彼らは中長期予報をする際、今年は何々の花の開花が遅いとか、花弁の大きさが違うとか、蛙が鳴くのが遅い、その声がどうしたなどと自身の経験則に基づいて判断する。これらは先祖から伝承された予測法だ。

 天気屋さんには、それぞれ独自に信頼を置く自然の中の着目点がある。その着目点はもちろん企業秘密で、他人には漏らさない。その変化を見て総合的に占う。その着目事象が多ければ多いほど信頼性が増し、当たる確率が高くなり、得意先の評価も高くなる。

 「私の知るお天気屋さんは、これまでも自分だけ目を着けているところから数多く半年先の天候を当ててきたと聞きました。彼が豊作になるというなら、私、信じるわ」

 予測はすぐに結果として現れる。小亀の言うように過去に何度も予測を当ててきたなら、優秀な天気屋さんなのであろう。

 「ほう、今日は小亀さんから良い話を聞ませてもろうた。じゃ、米はは安値のままやな」

 善兵衛は小亀の話を満更でもないものと聞いたとして、ほくそ笑んだ。

 前田は、楽しい余興話を聞いたといった素振りだったが、その実、百パーセント否定するという感じでもなかった。そのため、その天気屋さんとは誰か、どういう予測方法か、もっと詳しく教えろと言わんばかりに小亀に手を替え品を変えして迫ってきた。

 小亀は喜三郎が仕組んだ話などと言えるわけがないし、事実彼が根拠とするお天気屋のことも知らないのだ。あくまで言葉を濁しつつ、「でも、信頼できる人よ」と念押しした。

 小亀の舞台慰労会が、いつの間にかぎらぎらした相場の話題に転じていく。前田や柏屋善兵衛らにとっては酔えない酒になってしまった。(続く)

 上の写真は大阪城をバックにした風景。

体重増は蠱惑的だが、故障の原因だ

 大相撲春場所が終わりました。自宅にいて可能であれば、幕下上位の取組からテレビ観戦している好事家ですから、当ブログでも、毎場所一回は相撲に言及したいと思っています。で、今場所最大の印象は何かと問われれば、やはり田子の浦部屋の”伝統”なのか、この部屋の力士はここ一番の取組に弱いなってこと。かつて稀勢の里(現荒磯親方)は「ここで勝って優勝を」と大勢が期待、応援すると、必ず負けていました。同じように、稀勢の里の弟弟子の現小結高安も今場所、照ノ富士に最大2つの星の差を付けていたのに、最後はプレッシャーに負けて体が硬くなり連敗、自滅してしまいました。

 逆に、逆転した照ノ富士は立派だったと思います。あの手足にぐるぐる巻いたサポーターを見ると、満身創痍なんでしょう。新聞によれば、場所の後半になればなるほど古傷の膝などが痛み出すそうです。でも、彼は痛みある様子を土俵上で見せず、15日間取り切りました。これが異国(モンゴル)から出稼ぎにきて背水の陣を敷く男のガッツなんでしょうね。それに比べて、”自滅の刃”の高安も母親はフィリピン人で、半分異国の人ですが、日本育ちなのでどこかに甘えがあるのかも知れません。ちょっと辛口過ぎて申し訳ないのですが、これも高安に対する期待の裏返しです。

 照ノ富士というと、小生が理事をしている奨学金支給財団での出来事を思い出します。財団のビルの上は留学生向けの宿舎になっていてモンゴル人学生も入っていましたが、その昔、照ノ富士が国で仲が良かったこのモンゴル人を訪ねてきたのです。それはそれで財団にとって名誉なことなんですが、照ノ富士はこの宿舎のトイレに入って便器を壊してしまったのです。なんせ200キロ近い体重ですから、一般の人用の便器では支えられません。それはしょうがないとしても、その後に弁償を申し出たという話が聞こえてこないのは残念です。

 有名人の印象というのはちょっとしたこと、それでファンになるかどうかも決まります。小生はかつて小兵だった宇良に好感したのは、昔の十両時代、彼が取組に勝って花道を引き揚げるときのしぐさ。前から来た老婦人がハンカチか何かを落としたところ、彼はわざわざ腰を落としてそれを拾い上げ、婦人に渡したのです。花道も歌舞伎で言えば舞台の一部、普通、役者はこんなことはしません。でも、宇良は根が優しいのでしょうね、目の前のことに放っておけなかったのです。この行為にNHKのアナウンサーも絶賛していました。彼のインタビューを聞いても、朴訥とした感じに素直さがにじみ出ています。だから、応援したくなってしまいます。

 宇良はかつて小兵で、居ぞり、伝えぞりなど背筋を使った決め技を持っていました。それはそれで魅力的でしたが、体重がないと上の番付では戦えないと自覚したのか、昔の十両時代から体重増を図りました。それで相手の押しに対してもひるむことはなくなりました。でも、それによって”副反応”が出たのです。膝への負担、故障です。それでかなり長い間、休場を余儀なくされました。照ノ富士栃ノ心、最近では琴の若、あまたの力士がぶち当たるのは膝の故障。便器も壊すような200キロ近い体重では、膝を壊してしまうのは宿命でしょう。

 相撲は前に圧力をかけて相手に俵を割らせてしまえば勝ちですから、慣性の法則からすれば、重い方が強い。ですから、体重増の誘惑は捨てがたいのです。しかし、それが力士生命を縮めるということも併せて知るべきです。宇良にはもう膝を痛めるような事態を起こしてほしくない。今のデブ状態では押されて後退し、土俵際で残そうとすると膝に負担がかかるので危ない。土俵際でうまく回り込むか、それができないのなら土俵を割ってしまう方がいい。いや、本当を言えば、もう一度体をスリムにし小兵に戻って土俵内を縦横に動き回り、足技、そり技、下手投げ、打っちゃり、肩透かし、突き落としなどの”小兵技”を連発して欲しいのですが、、。

 上の写真は、快晴の日の千鳥ヶ淵。桜満開でした。

小説「散切り頭の新八独り旅」

第四章 西郷隆盛がロシアから戻って来る?(続き)

 

 あと二、三日で小亀が北座の公演を終えるという時分に、吉が楽屋に訪ねてきて告げた。

 「先日、自宅に来たお侍のこと。姉さんにも伝えてあると思うけど、小磯さんの墓参りをしたいと言うてますから、私は一緒に行こうと思ってます。姉さんも時間があったら付きおうてくれますか」

 吉は杉村義衛が磯の墓参りをしたがっているということを伝えた。

 「そうね。われわれとは一緒にいた小磯ちゃんの実の御父上ですから、私とも関係なくもないもの。つれなくはできないわ、私も行きます。…それでいつ行くの」

 「姉さんの北座公演の打ち上げのあと。千秋楽の次の日でもいいかしら」

 「よろしいよ。では予定しとくわ」

 「ところで、吉も椎葉屋の住吉喜三郎さん、知っているやろ」

 「ええ、姉さんと子供のころ、仲良くしてはった三升屋さんのぼんぼんですやろ」

 「そうや。先日、喜三郎さんが北座に訪ねてきてな。いろいろ頼まれごとされてしもうたわ」

 小亀は独りの胸の内にとどめておくのが恐かったので、吉に漏らした。

 「どないなこと」

 「それは言えへん。固い約束やからなあ。でも、何かお金儲けにつながることらしい。…それで金儲けできたら、私にもお金回すと言うのや、あんまり信用せんと待っとると言っておいたけど」

 「何か危ないことではないやろね、姉さん」

 「さて、危ないことかどうか…」

 小亀は頭の中で、そんな噂を流すことが悪いことかどうか、実際、手が後ろに回ることになるのかどうか、考えた。が、整理はつかなかった。

 しばらく沈黙が続いた。吉は小亀が淹れてくれた番茶をすすった。

 小亀と喜三郎の話に興味を持ったが、それ以上は突っ込んで聞くこともできなかった。

 「心配は要らんやろ。第一、気の小さい喜三郎さんのことやから、危ないことはできへんでしょう」

 「そんなら、いいのだけど…。では、墓参りの件、忘れんといてね。東京から来たお武家には私から北座の公演が終わる次の日辺りに墓参りをしたいと告げておくわ。杉村さまはどうやらお西さんの向かいの宿屋にいるらしい」

 「そうか、頼むわ」

 楽屋は騒がしいところ。二人が話している最中にも、人の出入りがあるし、幕の開け閉めごとの高い拍子木の音が聞こえてきた。

 

 新暦四月の半ばに、小磯、いや実を言えば、ほぼ乳飲み子同然で亡くなった岡田貞子の実子伊都の墓参りは実現した。白川、鹿ケ谷の桜の木は葉桜になって、青々とした葉を広げていた。雪解け水を溜めた琵琶湖の湖水を大量に大阪湾に流すように、白川の流れも勢いを増していた。

 永倉新八は吉の言う通りに、朝方に西本願寺前の宿屋を出て、鹿ケ谷の岡田宅を訪れた。

 「ごめん、吉さんはおるかね。杉村です」

 陋屋の玄関先で声をかけると、しばらくして吉とは違う女性が出てきた。白地の単衣に黒の羽織。目鼻立ちの整った顔立ち。薄化粧にもかかわらず、妖艶さも漂わせていた。

 「ようお越しになりました。杉村さまですね。杉村さまのことは吉から聞いておりました」

 新八は、女性の美しさに一瞬目を奪われた。

 「こちらも、先般、吉さんが墓参りの期日を知らせに我が宿舎に来た時にあなたのことは聞いておりました。伊都さんですね」

 「はい、岡田伊都です。今は大阪で、尾上小亀という名で舞台芸人をしております」

 新八は小亀を一目見て、<あのころの小常に似ている。いや、生き写しではないか>と感じた。わずか、足掛け二年の逢瀬だったが…。

 だが、半面、<会いたい一心からの思い過ごしだろう、磯は死んでいるのだ>と自らに思い聞かせるしかなかった。

 「母から、聞いております。杉村さまは幕府方にいらした方とか。せっかく娘さんに会いに東京から京都までお越しくだされましたのに、…二十年も前に亡くなってしまっているとは、本当に残念なことをしました。私は磯さんとは幼い時分、一緒におりました」

 そして、小亀は磯の幼い時の話や当時の祇園の話などを始めた。ほとんどは小亀自身が覚えていたことではない、母親からの聞きかじりだ。

 すると、やはり紺地の着物と羽織で外行きの身なりをした吉が奥から出てきた。庭で摘んだと見られる花と線香を握っていた。

 「杉村さま、お待たせしました。では、参りましょうか」

 “小磯”の墓は、鹿ケ谷から東山に入った山中の中腹にある小寺だった。岡田宅から歩いて十丁(約千百メートル)ほどの距離で、山門も庫裏も崩れかけていて、名刹とは思えない寺だった。

 墓はその一角の鬱蒼と木々に囲まれた低い地所にあった。

 削りのない丸石には「岡田家の墓」の文字。だが、後ろにある墓誌には、貞子、その夫とともに、「永倉磯、明治四年五月三十日死去、享年四歳」と書かれてあった。

 新八は、「永倉」の字を見て娘の死を信じざるを得なかった。そして、その小さく刻まれた文字を撫でた。

 「苦労をかけたな、磯。不動村で別れたあとに、程なくお前も天上の母上の許に行ってしまったのか…」

 そう言うと、涙があふれてきた。

 「申し訳ない、まことに申し訳ないことをした。父が傍におったら、まだこの世におったかも知れんのにのう。でも、父も事情があって別れなければならなかったのだ。どうか許してくれ」

 新八は小声で語りかけた。

 涙が嗚咽に変わった。線香もあげないうちに、新八は泣き崩れてしまった。

 「四歳では人の世の楽しさ、面白さを何も知らないうちに、のう、磯。母のところに行くには、せめて、大人になってからでも遅くなかったのに」

 嗚咽する新八の背中を小亀がさすった。何も言わずに、この老人をいたわるのは自分の義務であるかのように。

 「小亀さん、ありがとうな」

 新八は小亀の気配りに感謝した。

 「伊都さん、吉さん、よく磯の墓をお守りくだすった。本当にかたじけない」

木洩れ日の一条が墓石を照らした。鳥の声も聞こえない、辺りは静寂が包んでいる。

 「おまえも父親の来訪を喜んでいるんだな。陽光に包まれて暖かそうだ。のう、そうではないか、磯」

 新八は墓に語り掛けながら、自らにも納得させるようにつぶやいた。(続く)

 上の写真は、岐阜県・飛騨高山の古い町並みの中で撮った通りすがりの着物美人。

タリバンは「ノータリンバン(脳足りん班)」

 これもちょっと旧聞に属する話題ですが、パキスタンで女子教育の推進活動をしていて、イスラム武装過激派組織「タリバン」に頭を狙撃され、重傷を負ったノーベル平和賞受賞者マララ・ユスフザイさん(23)に対し、タリバンが再度暗殺の脅しをかけています。そもそも女性には教育が必要ないという発想はどこから出て来るのか。イスラムの教義にはないと思います。百歩譲って特定のだれかがそういう考えを持つのは自由ですが、それを他人にも強要し、守れないヤツは許さん、殺すぞというのはおよそ無茶な思考回路。自由と民主主義の中にいるわれわれからすると信じられないことです。

 父親が学校の先生で教育一家に育ったマララさんは「女性も教育を受けたい」と、その権利取得のために闘っていたんですが、2012年、当時15歳の彼女が乗り合いバスで登校途中、そのバスに乗り込んできたパキスタンタリバンの兵士から「だれがマララか。名乗り出なければ全員射殺だ」と告げられる。彼らが最初からマララさんだけを狙っていたことが明白。彼女が名乗り出ると、兵士が発砲、頭などに3発の銃弾を浴びせたのです。15歳の少女としては、随分酷な体験だったかと思います。

 彼女は英国で手術を受けるなどして奇跡的に生き延びます。そして、彼女の功績が改めて世界に喧伝され、称賛を受けて、2014年ノーベル平和賞を獲得しました。同賞受賞者ではもっとも若い年齢。彼女はその後、その言葉に恥じることなく、英国オスクフォード大学で哲学、政治学などを学んでいます。そのまま英国にいれば、平和な暮らしもできたのでしょうが、彼女が偉いのは、自分が受けた教育を祖国の女性のためにも授けたいと、志願して危険なパキスタンに戻ってきたことです。

 マララさんは国連本部で演説し、「銃弾では私の行動は止められない」と女性の教育、権利獲得のために闘い続けることを宣言しました常識ある人間からすれば、なんと素晴らしい人間かと感動してしまうけど、タリバンにはそういう常識が通じない。同組織のスポークスマン的役割を持つエサヌラハ・イフサンなる男が最近、ツイッターで「再度マララを襲う。手を失うことになるだろう」と脅してきたのです。本当にノータリンの連中です。幸い、パキスタン政府はこの男を逮捕し、その後襲撃事件は発生していない。タリバンSNSアカウントも永久閉鎖されました。

 でも、ひどい話です。小生にはいまだに分からないのは、タリバンは「女が教育を受けるのは許しがたい罪であり、死に値する」と言っていることどうして女性への教育が「罪」になるのか。ウィキペディアによれば、イスラムの法典、コーランには「女性は男性より劣位にあり、保護されるべき存在」とあるそうですが、これは弱者へのいたわりを諭したものでしょう。教育を禁じるとか、まして「罪」になるとまでは書かれてないと思います。タリバンがそう考えるなら、拡大解釈か、誤った解釈です。

 話は飛んで、日本の男女差別の問題。国会議員とは会社の取締役とかで女性の登用率が先進国の中ではかなり低く、日本は女性に辛い国、差別のある国だと見られています。この現状にお前はどう思うかと問われれば、小生は、差別があるとは思いません。同時に、男女同数の方向に向かうため、女性を一定割合で登用するというクォータ制度導入の考えがありますが、これにも反対です。本当の意味で、男女の同権同等とは、試験の点数で優劣を量るように、性別に関係なく淡々と序位を付けたらいいと思います。女性優先の逆差別もまた問題です。

 上の写真は、千鳥ヶ淵の桜道に咲いていたモクレン。背景はインド大使館。インドのヒンズー教にも男女差別があるのか。

小説「散切り頭の新八独り旅」

第四章 西郷隆盛がロシアから戻って来る?(続き)

 

 京都四条通りは、東方の果てに八坂大社があるので、人通りが絶えない。

 通りに間隔をおいてきちんと植わっている柳は青々として地面を這うようだ。ときより強めの風になびき、通りの人の顔もなでる。

 北座は四条通りの鴨川近くで、前には南座がある。柳のさらさらとした動きがどっしりした北座の赤い看板をさらに際立たせていた。

 北座の舞台で今、かかっている公演は大阪の尾上亀之丞一座の「赤穂浪士をめぐる女絵巻」だ。

 この公演で準主役を張っている尾上小亀のところに、若い男が訪ねてきた。祇園で生活しているときに知り合い、今は四条大宮の呉服問屋「椎葉屋」の若旦那に収まっている住吉喜三郎だ。

 喜三郎は祇園置屋「三升屋」の倅。家の近くで芸の習い事をしていた小亀、いや伊都と呼ばれていた磯とは幼馴染だった。

 もちろん、子供のころに男女の仲を意識したわけではなく、兄妹のように身近に接しているうちに、「喜三郎はん」「伊都ちゃん」という呼び方で自然に気持ちを通じ合わせて行った。

 稽古の辛さにめげたりしている伊都を見ると、「何、泣いてんのや。がんばり」と慰めてくれたり、花見の季節には手を引いて清水寺の境内に連れて行ってくれたり。

 喜三郎は老舗のぼんぼんを感じさせる甘い端正な顔立ち。その上、何かにつけ親切にしてくれるので、伊都は徐々に慕うようになった。

 しかし、伊都は自分の身の程をわきまえていた。

 芸妓は、将来水揚げという形で身体も商売の道具としなければならないし、金持ちの旦那も持たなくてはならない。所詮、添えぬ身の上と分かっていたので、磯も喜三郎への熱い気持ちを吹っ切ろうと、よそよそしい態度を取っていた。

 そして、別れは自然に来た。喜三郎は二十歳近くなって、「椎葉屋」の一人娘の婿候補として養子に入ったのだ。伊都は落胆したが、これも運命と思い、芸事により一層熱中した。

 大阪道頓堀の演劇一座の看板役者、尾上亀之丞が贔屓の旦那衆のお供で祇園に遊びに来たのは、それから間もなくだった。

 伊都も十五を過ぎて、娘から女の身体に変わっていた。

 亀之丞は舞妓として出てきた伊都の芸、とりわけ体のしなやかさに目を見張った。

 「彼女の踊りは、若い割には色気があって素晴らしい。ぜひ親御さんと連絡を取りたい」

 亀之丞のたっての願いに、後見人になっている小百合を通して岡田貞子に連絡が行った。

 「娘さんはえらく筋がええ。芸妓にしておくにはもったいないくらいの華やかさを持ってはる。芸妓ではなく、芸人にする気はないでっしゃろか」

 岡田貞子も、わが娘同然に育ててきたために、伊都を芸妓にするのはいささかためらいがあった。加えて、本当は自分の子供でなく、永倉新八と小常やその姉の小駒から預かった女子であり、いずれは東京の縁者に返さなければならないと思ったからだ。

 貞子は悩んだ末に亀之丞に打ち明けた。

 「絶対本人には内緒にしてほしいんどすが、実は、あの娘は私が腹を痛めた子ではないんです。伊都と名乗っていますが、本当は磯と申します。あるお武家と島原の芸妓の間に生まれた子供です。その芸妓は産後の肥立ちが悪く亡うなってしまい、祇園の芸妓をしていた姉に引き取られました。ですが、その姉さまも亡うなってしまったので、乳母をしていた私が実子として育てましたんや」

 「さようでしたか。では、あなたの了解さえあれば、娘さんを一座に引き取ることはできますな。立派な芸人にしてみせましょうぞ」

 亀之丞の言葉にはいささか武家の言葉も混じった。

 事実、西国のある藩の武家の出身だった。武士の商法ならぬ武士の芸人だった。

 「でもな、亀之丞はん。私は本当の父親のお武家と約束したんどす。彼がちょうど戊辰の役の戦場に向かう時や、これが最後の目通しと思い、乳母の私がこの女児を抱いて見せに行ったんどす。幕府方のお武家さまです。彼は、もう死を覚悟しておりまして、娘をぜひ江戸にいる実家の方に届けてほしいと言い残しはりました。心残りだったのでしょうね」

 「ほう、そのような事情が…」

 「私は当時、子供を江戸などに送るのはとても無理やと思いましたが、切羽詰まった相手のことを考えて、承知しましたと答えたんどす。…ですが、昨今、陸蒸気が盛んに造られ、間もなく東京までも通るようなことを聞きました。あながち無理ということものうなりました。ですから、娘を一度、東京に連れて行き、所縁の人に会わせなければなりません」

 亀之丞はしばらく思案顔をした。

 そのあと言葉を選び、若干言葉の調子を変えて話し出した。

 「儂らは、今は上方での公演が主ですが、将来は東京にも進出しようと思うとります。ですから、一座で東京に行くこともあるでしょう。儂に任せてもらえば、娘さんを東京の所縁の方に引き合わせることも可能です。それも約束しましょうぞ。どうかお義母さんの方から説得してもらって、娘さんを一座に引き取らせてください。どないですか」

 貞子は、伊都が亀之丞一座に加われば、東京行きも可能であると思い込んだ。さらに、今の自分の身の上からして、陸蒸気に乗って二人で東京まで行くのは無理だろうとも思っていた。

 自宅に戻った貞子は伊都に対し、「演劇に興味があるか。亀之丞一座に加わっても良いか」と聞いた。伊都は、喜三郎との一件で好きな人とも別れなければならないという芸妓の切なさを思い知っているので、貞子には前向きな返事をした。

 いや、喜三郎との別離だけでなく、伊都は祇園の馴染みの客に連れられて北座、南座に行き、そこで催される演劇を見て、関心を持っていたのだ。だから、大して悩むこともなく、芸妓の道を捨て、演劇で生きる決断をした。

 十六になった伊都は祇園を離れ、大阪に赴いた。尾上小亀という芸名をもらって本格的に演劇を習い始めた。大きな声を出す必要がある舞台芸と歌舞音曲を主にする座敷芸は違う。だが、体全体を使うことに変わりはない。

 生来の華やかさを持つ伊都いや磯は、もともと芸事の経験があったこともあって、一座の中でもめきめき頭角を表し、上方演芸界の大女優になっていった。

 

 今は呉服問屋「椎葉屋」の若旦那になった住吉喜三郎が伊都と会うのは七年ぶりくらいのことであろうか。

 北座の楽屋は狭いので昼休憩の時間を使って、近くの茶屋に入った。四条通りは二人が祇園にいたことから慣れ親しんだところだ。

 「久しぶりやのー、伊都ちゃん。元気そうやな。…それに舞妓のころよりずっときれいになった」

 喜三郎はためらいがちに久闊を叙す言葉を切り出した。

 「喜三郎さんこそ。若旦那ぶりが板についてきた感じがしはりますよ。ともかく、お元気そうで何よりどす。お商売も順調どすか」

 小亀は、久しぶりに喜三郎に会った胸の高鳴りを隠すように何気ないふりをして聞いた。

 「まあまあやな。伊都ちゃんが大阪の演劇一座に入ったことは、祇園の小百合さんから聞いたんや。えらい人気になっとるそうやないか。立派なものや」

 喜三郎と伊都いや小亀は昔話を肴に時間の隔たりを忘れたように会話を弾ませた。

 そんな中でも、小亀は喜三郎の胸の内にわだかまりがあるのを察知した。時折、目を伏せ、ため息をついていたからだ。

 「喜三郎さん、さっきから何や変やで。心配事でもあるん違いますの」

 喜三郎はちょっと言いよどんだが、昔馴染みという安心感からか、心の内を吐露した。

 「実はな、米相場に手を出して、大負けしてしもうたんや。お商売にも差し支えか出るほどの金が飛んでしまった」

 大阪堂島の米会所は江戸時代からあり、日の本一の米相場が立っていた。江戸時代での相場師は豪商のみに限られていたが、明治期に入ると、小金を持った商家の旦那衆がそれに参加するようになった。椎葉屋の住吉喜三郎もそんな一人だった。儲けも大きいが、損の額も大きい。かなりの危険が伴うばくちにも似た投資だ。

 小亀も喜三郎が手を出していた米相場のことは知っていた。

 「難儀やねー。でも、そんなん言われても、こちらだってお金ないし、助けようがない」

 伊都は喜三郎が金を無心しにきたのかと一瞬思った。

 「伊都ちゃんにお金で助けてもらおうなんて、思うてないよ。ただ、ちょっと頼みがあるんや」

 喜三郎はそのあとちょっと言いよどんでいたが、しばらくして、

 「米相場にはな、伊都ちゃん、いろいろ仕掛けがあるんや。米相場には豊作も不作もあるやろ。そこで、天候の偽情報を流すことで相場を動かすこともあるんやで」と続けた。

 「偽情報?」

 「そうや、偽情報で米を安値で買って高値で売りさばき、利ザヤを取るというものや」

 「ほう、そうなんや」

 小亀は贔屓にされている大店の旦那衆から、酒席に呼ばれたときに、相場の話を聞いていたが、偽情報の流布なんて仕組みがあるとは思いもよらなかった。

 「それでな、伊都ちゃんにちょっと頼みがあるんや。伊都ちゃんも芸人なら贔屓筋の旦那衆がおるやろ。その旦那衆の中には相場に手を出しているもんもぎょうさんおると思う。その旦那衆に、近い将来の天候の分かる人から聞いた話だと言って、今年は天候が順調で米が大豊作になるということを暗に匂わせて欲しいんや」

 芸人は金持ちの旦那衆を後見人としている。つまり、旦那衆は、贔屓の芸人の収入を安定させるため、舞台の切符を大量に購入し、関係者に配ったりして商売に役立てている。

 そのお礼に、芸人は旦那衆の飲み会の席に付き合わされることがある。小亀は大阪の人気者だから、旦那衆と顔見知りで、そういう機会が何度もあるだろうと、喜三郎は考えていた。

 「大豊作となると予想すれば、のちのち値段が下がるので、米を抱えている仲買人は今のうちに世の中に放出するし、今年の米の権利を買った人も転売する可能性がある。そういう売りが出たなら、儂は米を買い進む」

 「……」

 小亀には思いがけない話で、返答に窮した。

 「ところが、実を言うとな、伊都ちゃん。儂と親しい信頼できるお天気予想屋さんがいるんやが、彼が言うには、今年は逆に天候が不順になって夏は寒い日が続くと言うんや。つまり、今秋、米は不作となり、相場は確実に上がる。夏までにわれわれは米を安く買い取るから、のちに値上がった分で大儲けできるという仕掛けさ。どう、伊都ちゃん分かるか、成功すればお礼はたっぷりするよ」

 <そういう金儲けの方法があるのか>

 小亀は喜三郎の奇計に驚いた。はっきりした返事はしなかったが、再三の頼みに首は微かに縦に振っていた。

 外ならぬ喜三郎さんの頼みであれば、その程度のことはしてあげてもいいかなとも思った。(続く)

 上の写真は、東京・千鳥ヶ淵で見たシャガの花。

デジタルマネーの給与支払いは是か非か

 先日、日経新聞を見ていたら、サラリーマン給与の支払いについて、デジタルマネーの導入が見送りになったようです。早くからキャッシュレス時代に入っている中国なら当然デジタルマネーOKでしょうが、日本ではまだまだ機は熟していない様子です。特に、労働組合の元締めである連合が反対しているとのこと。若者は「連合の幹部なんてインターネットもよく分からない世代なので」とバカにしていることでしょう。確かに、昨今、若い世代で電子マネーを使う人は多くなっています。通貨への認識が変わってきているのは間違いありません。

 その昔、サラリーマンは、封筒に入った札を女房に直接手渡しすることで、その札が男の労働対価だと女房に認識させ、威厳を保ってきました。ところが、銀行振り込みになって、口座の管理は女房が担当する家が多く、男どもは賃金に直接タッチしなくなりました。そこで、女房どもの頭の中で男の労働対価と銀行の金の関係性欠如が生まれ、その分男の威厳もなくなったのです。小生がいた会社は、ちょうど入社した年度から給与の現金支給が銀行振り込みに変わりました。だから、小生は関係ないのですが、先輩たちはかなりのわだかまりがあったようです。

 銀行振り込みになって安全性が一段と高まったのは確かです。給料日に酔っぱらってなくしたり、すられたりすることはなく、多く現金を持つことで気が大きくなり、余計に使ってしまうこともなくなりました。それでも現金にこだわる人はいます。先輩たちの中には相変わらず、威厳を示すために、すぐに自分の銀行口座から全額給与を下ろし、銀行の封筒にそれを入れて女房に渡すという御仁もいました。今は昔の笑い話です。小生は海外にいる時はともかく、日本では銀行口座の管理はすべて内人に任せていました。

 連合がデジタルマネーに反対しているのは、彼らが旧世代で頭が古いだけではなさそうです。労働基準法によれば、給与の支払いについては、①通貨で支払うこと、②直接労働者に支払うこと、③分割せず、全額一括で支払うこと、④毎月一回以上支払うこと、⑤一定の期日を設定し、支払うこと-となっているとのこと。最初に出てくる「通貨での支払い」という点について、連合はこだわっているのだと思います。

 ただ、労基法が言っているのは、労働対価は国家が発行する通貨での支払いであって、現物支給などではダメですよという意味。法施行当時はデジタルマネーなどなかったので想定外だったのです。で、改めてデジタルマネーは「通貨」と認識できるかどうか。若者が一般的にスマホなどのデジタル機器で金の決済をしているのなら、本来デジタルマネー支払いでもいいのでしょう。だから、選択制でしてはいかが。あくまで銀行振り込みにこだわる人には銀行口座に、デジタルでもいいという人にはペイペイなどの電子システムに投入すれば良い。

 では、お前は給与の電子マネー支払いに賛成なのかと問われると、小生は今、サラリーマンではないのでどちらでもいいと思いつつ、本音ではやはり古い世代だし、デジタルマネーはまだ時期尚早なのかなと感じます。自身、まだ使っていないし、アルバイト原稿を書いてその原稿料をペイペイで払いますとか、ビットコインでどうですかなどと言われたら、正直困ります。コンピューター上、スマホに大量の金が入っていると思うだけで、不安です。ネットバンキング犯罪が多いですから。それでも、日本もやがてキャッシュレス主流の時代に入るんでしょうね。

 上の写真は、小生の自宅からそう遠くない大岡川の橋にそばにある早咲きの桜。川津桜か。 

小説「散切り頭の新八独り旅」

第四章 西郷隆盛がロシアから戻って来る?

 

 新選組の元二番隊長、永倉新八が京都に着いた新暦三月末で、桜の花は咲き始めであったが、一回り(一週間)たったので満開になった。もう一回りすれば、花から葉に変わってしまうだろう。季節の廻りは早く、朝晩も春の白い日射しが感じられるようになった。

 新八は相変わらず西本願寺前の旅館尾張屋にいた。壬生を歩いたり、祇園を回ったりして娘の消息を訪ね歩いたが、依然つかめないままだった。

 もちろん、再度鹿ケ谷の岡田貞子の家も訪ねた。

 新八は、吉も他所から引き取られたと聞いたので、吉はひょっとしたら、藤堂平助の遺児ではないのかと推測した。

 そこで、吉と会って、「あなたの母親の名は胡蝶という名ではないのか。父親は藤堂平助と聞いていないか」と聞いたが、否定された。

 吉はもらい子であるとは自覚しながら、義母の貞子から岡田の家を守るよう難く言われていたし、自身も岡田家の人間と思い込もうとしていたので、知らないふりをした。事実、胡蝶とか藤堂平助という名は聞いたこともなかった。

 ただ、吉は「小磯さんの墓参りをするのなら、ご案内します。姉の伊都もご一緒したいと言ってました」と新八に告げた。

 新八は、虚しく辞去するしかなかった。

 

 その翌朝、旅館で朝餉を食しているときに、また来客があった。滋賀県警邏卒の津田三蔵である。

 この日は、彼一人だけだった。少し息を切らして、慌てるような素振りだった。

 「いかがした」

 新八が尋ねると、津田は声を潜めて「いや、杉村様。大変なことが分かりました。…世間が知れば、大騒動が起きそうなことです」と話し出した。

 その興奮ぶりが尋常でないと見た新八は急いで朝餉を済ませ、近くの本光寺に誘った。寺の境内の桜の木は満開を過ぎて葉桜になりつつある。

 「で、大変なこととは」

 「警察内で噂になっていることです。幕末、永倉新八殿のような幕府方にとっては敵であった薩摩の西郷隆盛ですが、御一新の立役者になり、その後政府に反逆し、西南の役を起こし死んだと言われていますね。私も西南の役に従軍しましたから、因縁ある御仁です。その彼が今も生きているというのです」

 「ばかな、そんなことはなかろう。信じられない話だ」

 西南の役が終わって、すでに十四年の歳月が流れている。

 「いや、永倉さま。西郷は城山で死んでいないというのです。西郷は宮崎での戦いに敗れ、薩摩軍の残兵を率い、鹿児島に戻って城山に籠りましたね。私も参加した政府軍の一斉攻撃を受けて大将の西郷も出撃し、銃撃されたので、それで覚悟を決めて、切腹したと聞いています」

 伝えられる話では、西郷は総突撃の途中で足を撃たれて動けなくなり、そこに居座った。腹心の別府晋助に「もう、ここいらでよか」と呼びかけ、切腹の形を取り、首を討たせたと言われている。

 津田にとっても西南の役は忘れられない出来事であり、西郷は敵として身近に接した男なのだ。

 津田は、西郷が城山で討たれたとされる明治十年九月の半年前、三月、熊本で戦う西郷軍の背後を突くべく日奈久(八代)に上陸したが、直後の戦いで左手に銃弾を受けた。長崎の病院で手当てを受けた後、十分な回復もないままに再び政府軍の戦線に復帰。最後の城山の戦いにも後方支援として参加している。

 「西郷が腹を切った話は儂も聞いている。敵ながら腹の座った立派な男だと思うておる」

 新八は西郷の面影を追った。

 「ですが、実際はいささか違うようです。西郷は側近の説得に応じて、一斉攻撃の前にひそかに城山を脱出し、阿久根方面に向かったというのです」

 西郷の城山脱出説は、西南の役の直後、その余燼が冷めやらぬうちから出回っていた。

 津田の説明では、友人の大久保一蔵(利通)が城山の西郷にひそかに伝令を遣わした。それは西郷家の家僕の熊吉であると言われ、鹿児島から政府軍に参加し、西郷も顔を知っている軍人も農夫の恰好をして同行したようだ。

 大久保の伝言は、「おはんが死ぬのは忍びない。もう日本の表舞台に出ん、当分、海外で暮らすっとばいうことで、山を下りたらどげんか」というもので、脱出を説得した。

 西郷は城山まで付き従って来てくれた部下の手前、今さら命を惜しむことはできないと思い、拒否した。

 だが、部下の多くも西郷脱出を心のどこかに秘めていた。薩摩藩、維新の英傑を今ここで失いたくない、生きていれば今回の蜂起の大義が大御心に通じ、仲間の死が無駄にならないかも知れない、その理由はまちまちだったが、、。

 そして、大久保の説得に気付いた側近らが頑強に脱出を勧めた。

 「西郷先生。この場はこらえて、再起をば、期してたもんせ」

 西郷は再起という部下の言葉で最後は折れた。重たい足を引きずって熊吉、農民に姿を変えた軍人とともに山を下りた。頬かむりして木こりの恰好だった。もちろん、武器などは携帯していない。

 脱出を認めるのは西郷一人というのが政府側の条件だった。政府軍の防衛線付近では、この脱出を承知していたように、熊吉だけに二言三言質問して三人を通した。

 西郷は阿久根に達し、そこから大久保が用意したと見られるサッパ船で沖合に出て、異国の船に乗り換えて海外に向かったという。その異国とは津田にも「分からない」と言うが、恐らくロシアではなかろうかと想像している。

 「西南の役から十年以上が経過して、その西郷は日本が恋しくなった。いや、恋しいというより、今の日本の在り様に憤慨し、再び日本を立て直そうとして日本に再上陸するのではないかと言う噂があるのです」

 「ほう、それは面白い話じゃのう」

 新八はほとんど信じていない。それで、からかうような話しぶりになった。

 「城山の戦いのあと、政府方は西郷の首実験をしたのだろう。城山であれば、西郷の身内も大勢いたであろうし、政府方にはその顔を見知った者も多かろう。首級は、それで確認されたのではないか」

 「政府方が確認したということで、多くの者は西郷の死を信じたと思います。だが、いろいろ聞いてみると、西郷の顔は傷ついていて分かりにくかったとか、確認したのは鹿児島に来ていた弟の従道ら身内の者だけで多くの者が見ていなかったとか、というあやふやなところもあったようです」

 「なろほど、西郷従道なら他の者を見ても『確かに兄様の首じゃ』くらいのことは言うかも知れんな。いや、大久保の意を受けていてそういう嘘をつくことも考えられる」

 「そうなのです、杉村様。ところで…」

 津田は話を替えた。

 「永倉新八氏でいらしたころ、つまり新選組のころ、西郷と会ったことはありますか」

 「それはある。昔、会津藩の本営となっていた京都黒谷の金戒光明寺で見掛けた。その昔、会津と薩摩は手を組んでいたからな。儂らは近藤勇局長の従者として会津中将さまに伺候したとき、たまさか見掛けた。向こうは覚えておるまいが…。恰幅の良い男で、泰然自若の風。なかなかの人物と見たよ」

 「そうでしたか。日本に来るのではないかというその西郷の件ですが…」

 津田は姿勢を正して話し出した。

 「西洋文明かぶれの日乃本を立て直すために再上陸するというのなら、大歓迎ですが…。実はそうでなく、彼はロシアに逃げ込んで、かの地で暮らすうちに却って西洋かぶれになったようなのです。間もなく我が国に来訪するというロシア帝国の皇太子に同行し、戻ってくるという話です。西郷が西洋人の露払い、御先棒担ぎをするとしたら驚きですし、そんなことをされたのでは、われわれはなんのために西南の役に従軍したかが分からなくなってしまう」

 津田はいささか憤慨しているようだった。

 西郷隆盛は維新政府に逆らって西南の役を起こした。すなわち、帝(みかど)に刃を向けた者として、ずっと「逆賊」扱いであった。だが、明治二十二年(一八八九年)の大日本国憲法の発布に伴う大赦があり、西郷の逆賊の汚名は解かれた。

 汚名消去は西郷の人柄を愛した明治帝の強い推しがあったからだ。実は、城山の戦いで大久保が最後に西郷の逃亡を考慮したのも、昔からの友というだけでなく、明治帝から「西郷の命を助けよ」との強い要請があったからだと言われている。

 西郷は、明治初期の帝の青年期、行幸に同行した折に肝胆相照らす関係となった。帝を強く引き付けてしまうほど魅力ある男なのだ。

だから、今は日本に戻っても罪に問われることない。しかも、西郷を慕う人々は全国津々浦々に満ち満ちており、彼が戻って文明開化の旗振りをすれば、今の政府にとっても願ってもないことなのだ。

 「もし、西郷がロシア皇太子とともに、大手を振って日乃本に帰り、文明開化を宣伝すれば、われわれの攘夷決行は難しくなる。…ここは何としても西郷を葬らなくてはならない」

 津田は語気を強めた。

 「杉村さま、いや新選組の永倉さんにしてみても、旧敵の西郷が戻ってきて世間の表舞台に立つのは面白くないと存じます。いかがですか」

 「いや、今の儂はすでに隠居の身。今さら薩長憎しでもない。すでに遺恨はない。だから、西郷をどう思うかなどと問われても困る。貴公らの攘夷の志を打ち砕いてしまうつもりはないが…」

 二人の会話はここでしばらく途切れた。

 「いずれにしても、事実かどうかも分からぬ。しばらく様子を見ようではないか」

 沈黙の後、新八がこう切り出して、話は終わった。

 境内に子供たちが入ってきて無邪気な声で駆け回り、騒がしさが二人の会話の邪魔になったということもあった。(続く)

 上の写真は、西郷隆盛奄美大島に流された時に住まいとした旧居(大島郡龍郷町)と園内にある西郷の現地妻愛加那の碑文。